人間は、所詮、時代の子である、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(注1)ができてしまうから、場合によっては、大きく歪められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、① そういう宿命を背負っているのである。

だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いた(注2)いるだけということが生じたりする。鋳型が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。

一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、② 「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(注3)と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、 手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってぎているからだ。たしかに、ただ漫然とメディアの情報を眺めているだけでは激流に呑み込まれてしまう。

いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めること痛切に求められてるのではないか。 もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ.

(寺島実郎『世界を知る力」による)
(注1)鋳型:ここでは、画一化した型
(注2)くり貫いて:ここでは、切り取って
(注3)茫漠:広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

101. そういう宿命とはどういう意味か。

1. 現代の人々は考えが時代や環境に歪められ、「世界」の見方が定まらない。

2. 現代の人々は時代や環境の制約を受けており、「世界」が正しく見えないこともある。

3. 人間はものの見方が時代や環境に縛られ、「世界」が正しく見えないこともある。

4. 人間は生き方が時代や環境に大きく影響を受け、「世界」の見方が定まらない。

102. ②「世界を知る」ことがますます困難になった)のはなぜか。

1. 個人の世界認識が狭まり、実世界の時代の変化をつかみにくいから

2. 個人の世界認識が固まらず、実世界の情報に域わされてしまうから

3. 個人の世界認識が、実世界のめまぐるしい変化や情報量に対応できないから

4. 個人の世界認識が、高度に発達している実世界の情報環境に追いつけないから

103. 筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできること何だと考えているか。

1. 今までの世界認識を改め、できるだけ多くの情報を得ること

2. 時代や環境の制約を克服して、自分の世界認識の限界を越えること

3. 情報の激流に呑み込まれず、自分の世界認識の枠から自由になること

4. 自分の世界認識にできるだけ柔軟性を待たせ、その範囲を自覚すること

人間は自然を人工化する。いかにも自然そのもののような錯覚を与えながら、人間は自然を巧妙に人工の風景に変えてゆく。それが、人間が豊かに暮らすための新しい自然環境なのだとすれば、それをとどめることはできまい。

そうしていつの間にか、山も平野も人間の目的に従った人工の風景に変わってゆく。しかし、絶えず人工化しようとする人の手がかからなくなると、山も野も、すぐにもとの姿に返ってゆこうとする。

まだまだ人間と自然の勝負は決まったわけではない。自然の( )というものが、今でもひそかに働いているのである。

(多田富雄「独酌余測朝日新聞社による)

104. ( )に入る最も適当な言葉はどれか。

1. 創造

2. 応用力

3. 治癒力

4. 復元力

今のわたしの生活は豊かだ!だが、そう言い切って何が落ち着かない気持ちになるのは何故か。

生まれた時代と国が違えば、あるいは為政者の指導が悪ければ、今も戦禍のうちにあり、明日の食べ物を心配しなければならなかったかもしれない。そうなれば豊かさとは程遠い暮らしを余儀なくされる。

生まれた家庭についても同じことが言えるだろう。

つまり、今のわたしの豊かさはわたし自身の努力で獲得したものではなく、① 「下駄を他に預けた」ーかさなのである。

105. ①「 下駄を他に預けた」豊かさとはどんなことか。

1. 他の人の努力で得られた豊かさ

2. 偶然の環境が提供してくれる豊かさ

3. 先祖たちが残してくれた豊かさ

4. 周囲の人々に守られている豊かさ

今の子どもたちはテレビやゲーム遊びが中心となってしまったから、疑問を持ったり質問したりする癖を失っている。与えられた情報をいかに使いこなすかが関心事になっているからだ。「疑う」のはかったるい、そのまま信じる方が楽なのに、と思う習慣が身についている。

そのような場合には、「① 断技術」を教えねばならない。「疑う」方が世界が広がり、もっと面白いことが隠れていることを実感させれば、子どもたちは「疑う」ことに夢中になると請け合える。「疑う技術」を教えるためには、大人が子どもを挑発する必要がある。次々と質問を発してアレコレ考える楽しみを味わわせるのだ。それによって子どもたちはいかに多くの不思議にとり囲まれているかがわかってくる。周囲の大人が「疑う心」を持っておれば、子どもも自然に同調するものなのだ。

むろん、世の中が円滑に回るためには、② 共通に定められたルールを「信じる」ということが欠かせないのは事実である。ルールそのものを信じ、みんながルールを守ることを信じ、ルール違反には罰則が科せられることを信じる、それがあってはじめて社会生活が営めるからだ。しかし、私はそのルールさえいったん疑い、納得の上で信じるとかみかかいうふうに変わるべきだと思っている。ルールは神懸り的に上から与えられるものではなく、社会を構成する人間が一致して決めるべきものであるという観念を養う必要がある。

「疑う」ばかりで、「信じる」が後回しになるのは心配だと思われるかもしれない。私が言いたいことは、「疑った上で納得すれば信じる」ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう。信じることをいったん留保して、疑い続けねばならない場合もあることを学ぶ必要もある。単純なルールであっても、いろんな側面があることを知ることは人生にとって大切であると教えるのだ。

ルールだけではない。自然界の現象について「なぜそうなるの?」と疑問を持ち、機械や道具の仕組みに「どんな仕掛けになっているの?」と考え、世の中の風習に「なぜそうしなければならないの?」と不審に思う。そのように疑い続けることが自然や社会の実相をつかむ根源の力になると思うのだ。単純に信じる方が時間がかからず手っ取り早いが、それでは社会に従属するだけになってしまう。

106. 疑う技術とはどういうものか。

1. 周囲に流されずに、世の中の不合理な側面を指摘できること

2. 情報を効率的に利用するために、不正確な情報を排除することう

3. 子どもだからとごまかそうとする大人の嘘を見抜くこと

4. 常に「なぜそうなるのか」という疑問を持ち、考えること

107. 筆者は、② 共通に定められたルールについてどのように考えているか。

1. 上から一方的に与えられたルールは改善すべきだ。

2. ルールを疑ってかかることは社会生活を困難にする。

3. ルールを無条件に信じるのではなく、疑ってみる必要がある。

4. ルールを守ることは社会を構成する人間として当然のことだ。

108. 「疑う」ことにはどのような利点と難点があるか。

1. 好奇心を刺激するが、円滑な社会生活を妨害することがある。

2. 時間がかかり大変だが、広い視野と正しい判断力を養う。

3. 社会に混乱を引き起こす危険もあるが、改善の原動力にもなる。

4. だまされることを防ぐために必要だが、不信感を増大させる。

109. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. 情報化社会の中で勝ち抜くためには、不正確な情報を見抜く疑う力が必要である。

2. 社会は矛盾に満ちているので、子どもに疑うことを教えて耐性をつける必要がある。

3. 疑うことと信じることのバランスをどのようにとるかを、子供に教える必要がある。

4. 子どもを自立した社会人に育てるためには、疑うことの大切さを教える必要がある。

今年も中学合唱コンクールの模様が放映される時期となった。若い出場者たちのひたむきで気持ちのこもった歌声は、聴く者の心を素直に感動させる。

合唱には、オーケストラやバンドなどの演奏とは違った魅力がある。まず合唱では、自分の声が楽器になる。同じ音色のものは二つとしてない楽器だ。

そんな個性豊かな楽器たちは、ともすればバラバラになりがちだが、それが一つになった時に生まれるハーモニーには、何物にも代えがたい美しさがある。

中学生という多感な年頃に、多様な個性を持つ生徒たちが力を合わせ、時にぶつかり合いながら、練習に励んでき。そこにはどんなドラマがあっただろう。そして、今年はどんなハーモニーを私たちに聞かせてくれるのだろ、今から期待に胸が膨らむのである。

110. 筆者は合唱の魅力をどのように考えているか。

1. 一人ひとり異なる声が一つになった時に、とても美しい響きになる

2. 高価な楽器は必要なく、誰でも自由に参加できる

3. 大勢で力を合わせることで、互いの欠点を補い合うことができる

4. この世に自分と同じ声を持つ者はいないので、常に自分の個性を生かすことができる

仏教の教えの中に、自分自身の根拠の発見というものがある。しかし、自分の存在を現世(注1)的なものの中から見つけるのは非常に難しい

現世に生きながら、現世に自分自身の根拠がないことについては誰もが無意識のうちに不安を覚えるであろう。それは捉えようのないものであり、非常に愁傷的(注2)で、漠然としたものである。それらを科学的に解明するにも無理があるだろう。

現世における自我の存在は、自身の意志とは全く無関係なところから始まっているのだ。現実に見えないことを求めていくことは勇気のいる決心であるし、到達しがたい境地(注3)である。仏教にある「無我」というのはその境地を指す言葉であろう。しかし、結果的に自分の根拠が現世にないという不安定な自我を支えるために信仰心が厚くなることも事実である。

(注1)現世:現在の世の中
(注2)憖傷的:悲しさや寂しさを持った
(注3)境地:最終的な到達目標である心の状態

111. 非常に難しい」とあるが、どうしてか。

1. 現世に自分の根拠がないことに無意識のうちに不安を覚えてしまうから。

2. 自分の存在が、自分の意志とは関係のないところから始まっているから 。

3. 見えないことを求めていくことは非常に勇気のいる決心であるから。

4. 不安定な自我を支えるためには、仏教に対して厚い信仰心が必要になるから。

以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1)だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色や形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を愛でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。

科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びら少ないだろうか、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。

自然界で正五角形のような対称性を示すためには必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁 (注2)の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(酒井邦嘉『科学者という仕事』による)

(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形

(注2) 花弁:花びら

112. 筆者は、自分が笑われた原因は、どこにあると考えているか。

1. 科学者らしくない趣のある表現で桜の花を褒めた点

2. 自分が桜の美しさを理解できていなかった点

3. 桜の花は自分が述べた形をしていなかった点

4. 桜の美しさを科学者的な視点から表現した点

113. ここでの理想化とは何か。

1. 桜の花はどれも正五角形であるとみなすこと

2. 桜の花には共通する特徴があるとみなすこと

3. 桜の花には数学的な美しさがあると考えること

4. 桜の花は他のどの花よりも正五角形に近いと考えること

114. 筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

1. 花には品種を越た交通点があることが明らかになること

2. 自然界に咲いている花の美しさに普遍性が見いだされること

3. 花の形がどのように決まるのかその仕組みが解明されること

4. 花の形の対称性が遺伝子によるものであることが証明されること

仮にあなたが知りあいから、エチオピアで飢餓に苦しむ難民救済のための募金に協力してくれと頼まれたとしよう。はじめから断ってしまえば、多少のうしろめたさは残るもののそれで一応、① 事態は収まる。しかし、もし協力を表明したとすると、あなたは、募金箱に百円入れても、千円入れても、一万円入れても「なぜもっと出せないのか」と言われるかもしれないという、「つらい」立場に立たされることになる。

(中略)

先進国が今ある繁栄を獲得した要因となった種々の経済活動は、地球という、人類全体が共有すべき有限の資源を消費した結果であるという視点もありうる。そう考えるなら、南北の経済格差や南の国の飢餓の宿題は、その共有資源を消費した代償として得られた経済活動の果実の偏在に起因するものであり、単に、ある特定の地域の問題ではありえないという議論が妥当性を持つことになる。

資源の消費に関しては最大の「貢献国」のひとつである日本の国民としては、自分だけ高い生活水準をエンジョイしつつ、世界に蔓延する飢餓は自分の問題ではないとは言いきれない。 ② ボランティアが経験するこのような「つらさ」は、結局、自分ですすんでとった行動の結果として分自身が苦しい立場に立たされるという、一種のパラドックスに根ざすものである。

(金子郁容「ボランティアもうひとつの情懶社会」岩波書店による)

115. 事態は収まるとは、具体的にはどういうことか。

1. 必要以上の出費をしなくて済む

2. どうしようかと悩む必要はなくなる

3. 知り合いとの間でトラブルになることを避けられる

4. 飢餓の問題について、それまでより考えるようになる

116. 筆者の考えによると、南北の経済格差や飢餓の問題を引き起こした要因は何か。

1. 関係する国々における政治や外交の間違った判断

2. 先進国が必要以上に多くの資源を消費してきたこと

3. 長い間、南北間で戦争や紛争が続いて、経済活動が妨げられてきたこと

4. 資源の恩恵を一方の人々だけが享受し、もう一方の人々は享受できないという不均衡

117. ボランティア経験するこのような「つらさ」とは、どのようなものか。

1. 問題の根源は実は自分にもあるのではないか、という感情に悩まされること

2. お金がそれほどあるわけでもないのに、もっと募金ができるのではないかと期待されること

3. 自分と同じ志でボランティアに取り組もうとする人があまりに少なく、失望すること

4. ボランティアを続けたいと思う反面、経済的な事情から続けられないこと

会話や文章の中に外来語や外国語を多用すると円滑なコミュニケーションが妨げられる、という指摘がされることがしばしばある。「あの人の話は横文字が多くてわかりにくい」などという話もよく耳にする。

「わかりにくい」が個人的な問題で終わる分には害が少ないが、公共施設の掲示や官庁の広報紙、新聞放送などに多くの人が理解できない外来語や外国語が並ぶとなると話は別である。

118. 筆者の言いたいことは何か。

1. 会話と情報伝達では外来語を使った円滑なコミュニケーションという意味が違う。

2. 外来語を多く使用した場合、話し手の意見ではなく別の人の意見となってしまう。

3. 公共の情報で外来語を多用すると、理解できないために実害が発生する可能性がある。

4. わかりにくい外国語を採用すると、新聞や放送などへの信頼性はむしろ薄れる。

会話を進めるうえで、男女間では ① 対照的な特徴があった。たとえば、お互いの発話への支持作業のちがいだ。女性は男性の発話に対して、「ん」「そうー」「へえー」「すっご〜い」などの「あいづち」や「うなずき」を頻繁に行っていた。これは、明らかに相手の語りを評価し、さらに話を進めていくことを支持する営みだ。

対照的に、男性は女性の発話に対し、こうした支持作業をそれほど積極的に行っていなかった。また、同性間の会話に比べ、男性が女性の発話に割り込んでいく割合が多かった。

会話における割り込み。これは単に相手の話をさえぎることではない。発話する権利の配分という点から考えれば、 ② ゆゆしき権力行使と言える。つまり、それは相手がしゃべることができる場でしゃべりきることを制止する権力行為であり、また、しゃべり終えたあと、会話において次の行為を決めることができる権利をも奪っていくのである。

詳しくは、先にあげた論文を読んでほしいのだが、ここで言いたいのは以下のことだ。性差別という現象を考えるとき、歴史的な経緯や社会構造的な背景から、その原因を説得的に論じることもできるだろう。しかし、他方で ③ まさに日々、性差別はつくられ続けているのである。

119. 対照的な特徴とはどのような傾向のことか。

1. 女性は男性の発話に反対することが多いが、男性は女性の発話に賛成することが多い。

2. 女性は男性の発話に非協力的だが、男性は女性の発話に対して協力的である。

3. 女性は男性の発話に賛成することが多いが、男性は女性の発話に反対することが多い。

4. 女性は男性の発話に協力的だが、男性は女性の発話に対して協力的ではない。

120. 作者が割り込みを ② ゆゆしき権力行使と考える理由は何か。

1. 相手が発話する権利を奪い、会話の流れを決める権利を奪うから。

2. 相手の発話権を制止し、自分だけが発話できるようにするから。

3. 相手の発話内容を無視し、会話の展開を方向づけることになるから。

4. 相手の話の内容を自分勝手に解釈して、会話をすすめるから。

121. まさに日々、性差別はつくられ続けているとあるが、筆者の考えに近いものはどれか。

1. 性差別をなくすための対話でも役割が固定化しているので、対話が成り立たない。

2. 歴史的経緯や社会的背景が影響し、普段話す時にも男女の優劣が意識されやすい。

3. 対話で性差別をなくそうとしても発話が偏ってしまい、平等だという結論に至らない。

4. 異性と話す態度が男女で異なるので、普段の会話で無意識に性差別が助長される。

住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の金を費やさなくてはならないので、当然のことだ、買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのは、大損害を被る。

だが、住居にとってより重要なのは、その有用性(注1)である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとが、生活のしやすい環境にあって利便性(注2)に富んでいるとかの点も、重要な要素である。

それらは必ずしも世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たちの考えからや行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。

特に、終の住処(注3)として考えるときは、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうええ、選択し決めていかなくてはならない。

年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まっていくる。自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画をたてたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。

もちろん、将来の経済情勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくことも必要であることは、いうまでもない。

(注1)有用性:役に立つこと

(注2)利便性:便利さ

(注3)終の住処:人生を終えるまで住む家

122. 世間の一般の価値基準として筆者が本文であげているのは何か。

1. 長期にわたって居住できる物件であること

2. 将来売却するときにも有利な物件であること

3. 購入者の生活様式に合った物件であること

4. 購入時の費用負担が抑えられる物件であると

123. 筆者の考えでは、年を取ってから住む家として住居を選ぶときに最も大切なことは何か。

1. 老後の生き方や行動範囲に沿っているかを判断ずる。

2. 老後は行動する能力が衰えるため家の構造を優先する。

3. 未来の予測に沿って決めた予算と同じくらでぼのものを選ぶ。

4. いつか売るときのことも考えて資産的な価値を重視する。

124. 住居選びについて、筆者が最も言いたいごとは何か。

1. 人が生活する上でどんな住居に住むかはとても大切であり、一般的な価値基準も参考にしたほうがよい。

2. 他人と考え方が異なったとしても、自分の生活スタイルを重視して将来の住居を決定したほうがよい。

3. 将来の経済状勢の変化に備えて、できるだけ資産価値の下がりにくそうな住居を選んだほうがよい。

4. 年を取るにつれて住居の好みも変わってくるため、その時々の考えに合わせて住居を選択したほうがよい。

佐藤さんは英語が下手だ、子さんも英語が下手だ、ということからだから日本人は英語が下手だという一般化をしてしまいやすい。まして自分の知っている中国や韓国からの人たちがみんな英語が上手であると言う経験を持っている人は、とくに強く「日本人は英語が下手だ」と確信する。

これは帰納的 (注1)推論に属するものであるが、本来の帰納的推論は、私たちが経験するすべての事象 (注2)について成り立つのを、将来経験するであろうことについてもそれが成立するだとうと予測するものである。これに対して、 ② ここで述べているようなことは、いくらでも例外を見つける事ができる事象についての結論であり、どこまで信用してよいか、はなはだ怪しいものである。しかし、世の中の多くの議論は、これに類するものである。一方では今日の日本の学生・生徒の学力は以前に比べて低下したという主張があるかと思えば、教育の当局者 (注3)は ③ それを立証(注4)する客観的データはない

そういえる学校もあるかもしれないが、一般的にそうとは言えない。といった弁明をする。とくに前者の表現は、論理的に考えればけっして学力の低下を否定しているものではないにもかかわらず、ぼんやり聞いていると、学力は低下していないと主張しているかのように受け取られるのは不思議である。

(長尾真「わかる」)

(注1) 帰納的:個々の具体的なことがらから一般的な法則を導く考え方

(注2) 事象:できごと

(注3) 教育の当事者:教育機関の人

(注4) 立証する:証拠を示す

125. に入る最も適切なものはどれか。

1. 英語が上手である

2. 英語が下手である

3. 英語がわからない

4. 英語が苦手である

126. ここで述べているようなこととは何を指しているか。

1. 自分の経験に即して考えると、「日本人は英語が下手である」と予測することができること

2. 自分の経験に頼り、「日本人は英語が下手である」と一般化することは間違いであること

3. 中国や韓国からきた人々とくらべて、「日本人は英語が下手である」と一般化してしまうこと

4. 「佐藤さんも花子さんも英語が下手である。だから日本人は英語が下手である」と確信すること

127. それを立証する客観的データはないという表現は、本来はどんな意味だと、筆者は言っているか。

1. 学力が低下しているかどうか、データを集めるべきだ。

2. 学力が低下しているかもしれないが、証拠がない。

3. 学力が低下しているから、そのデータを集めるべきだ。

4. 学力が低下しているなどという事実は、絶対ない。

何にしても、子どもは自分が生きたいように生きる。ある意味では、① それが親が子どもを立派に独り立ちさせたということになる

親が大学を選び、就職先を選び、結婚相手を選んで、新婚旅行にもついて行くという生き方を、あなたは好ましいと思うだろうか。それが極端な言い方だというなら、どの時点で子どもの選択を認めるのだろう。

だんだんに、子どもが自分一人で決められるように仕向けていくというのが、ごくふつうの方法だと思う。勝ち負けでいえば、だんだんと ② 親が負け方を覚えていくということになるはずだ。

負け方を覚えることによって、親は成長していく。少しずつでいい。子どもの意見を聞き入れ、子どもが自分で選択する範囲を広げていくということである。それが親の願いと離れていても、少しずつそれを受け入れていく。それが負け方を覚えるということになる。

進学や就職問題でまだ衝突が続いているというのは、負け方がうまくないということになる。親が大人になっていないということでもある。上手に負けて、子どもを独り立ちに導くほうが大切なのだ。

128. それが親が子どもを立派に独り立ちさせたということになると筆者が考えるのはなぜか。

1. 親が子どもの人生の大切なことを全部決めてやったから。

2. 子どもが自分で自分の生き方を決められるようになったから。

3. 親が子どものためにいろいろしてやるのは当然のことだから。

4. 子どもが生きたいように生きることは極端な選択だから。

129. 親が負け方を覚えていくとはどういうことか。

1. 子どもが独立できるように、けんかをしても親が負けてやること

2. 子どもの意見を聞いて、親の考えと違うところを気づかせること

3. 子どもの意見を聞いて、親の考えと違っていても許していくこと

4. 子どもが独立できるように、けんかをしながら離れていくこと

130. 進学や就職問題でまだ衝突が続いていることを筆者はどう考えているか。

1. 子どもの成長に対し、親はそれを認められるほど大人になっていないと考えている。

2. 子どもが成長していないので、親は子どもの考えを認めてはいけないと考えている。

3. 親が成長していないのに、子どもを成長させるのは無理だと考えている。

4. 親も子どもも成長していないので、両者とも負け方を覚えるべきだと考えている。

価値の多様性ということが、最近よく言われるようになった。生き方が多様になっただけ、価値観の方も多様になってきた、というのであるが、果たしてそうだろうか。

教育の「実状(注1)」を考えてみると、日本人すべてが、「勉強のできる子はえらい」という、一様な価値観に染まってしまっている、と言えないだろうか。

親は子どもの点数のみ序列のみを評価の対象にする。少しでもよい点をとってきて、すこしでも上位に位(注2)する子は「よい子」なのである。教師も親ほどではないにしても、それに近いであろう。

(河合隼雄『子どもと学校』岩波書店)

(注1)実状:実際の状況
(注2)位する:その位置にいる

131. 筆者の考えとして正しいものはどれか。

1. 最近は生き方の多様性が価値観の多様性ももたらした。

2. 子どもは点数や序列という一つの価値観によって評価される。

3. 日本の教育を見てみると、多様な価値観が存在している。

4. 教師の価値観と親の価値観は基本的に違っていると言える。

価値観が多様化し、常識と言われるものまでもが個人レベルで異なるような現代社会で、それぞれがそれぞれの価値観や常識を押し付けてもトラブルが起きるばかりである。

とはいえ、トラブルが起きないように相手に合わせているだけでは、真に互いを理解し合うことはできまい。

考えを伝え合い、そのそれぞれを認めつつ、新しい価値体系を構築する。つまり、コミュニケーションを通じて互いに納得できる妥協点を見いだすことが、求められてくるのである。

132. 筆者の考えに合うものはどれか。

1. 考え方が違ったら、人間関係にひびが入らないように、できるだけ相手の考え方を優先する。

2. 信頼関係を築くためには、一時的に関係が悪くなっても、お互いに素直に意見を言ったほうがいい。

3. 考え方の違いを認めた上で、双方が新たな価値基準を持つようになることが望ましい。

4. 人はそれぞれ違う価値観や判断基準を持つため、完全に互いを理解し合うことは難し。

先月、中国で珍しいチョウが採集された、という新聞記事が出た。チョウは昆虫の中では、人に好かれるものの代表で、「チョウよ花よ、とかわいがる」という言い方もあるくらいだから、珍チョウの発見が新聞紙上をにざわせても不思議なわけではない。

これがゴキブリであれば。 ① こうはいかない。人に嫌われる代表のような昆虫であるゴキブリはチョウよりもはるかに種類が少なく、したがって珍しいゴキブリが発見されればやはり事件となるであろうが、「珍ゴキプリ発見」という記事では、よほどうまく書かれていないと採用されないに違いない。

(養老孟司「ヒトの見方』筑摩書房による)

133. ①「こうはいかない」とあるが、どういうことか。

1. めずらしいゴキブリが兄見されることは、きわめて難しいということ

2. ゴキブリがチョウのように人に好かれ、かわいがられることはないということ

3. めずらしいゴキブリの発見が記事となり、話題を呼ぶことはないということ

4. めずらしいゴキブリが発見されても、チョウの発見より不思議ではないということ

全国各地の街々には街路樹がある。

私は木や森と関わることを職業としているせいもあるが、やはり街路樹がしっかりと植えられる街でないと好きになれない。私でなくとも、読者の中にもそういう人が多いにちがいない。

街路樹の良さがその町の品格を代弁する側面がある。街路樹をまったく大切にしない自治体があったとしたら、その自治体にはどこかに欠点があるといってもいいだろう。

134. 筆者は、街路樹はどのようなものだと言っているか。

1. 街全体の品格や雰囲気が表れているものだ。

2. 自治体の豊かさの程度が表れているものだ。

3. 住民の森や木への関心の深さを示すものだ。

4. 自治体の自然保護への取り組みを示すものだ。

再見積のお願い

拝啓

貴社、益々ご隆盛のこととお喜び申し上げます。

さて、先般いただいた見積書の件ですが、社内で検討致しました結果、是非お取引を開始させていただきたいと考えております。貴社製品は性能は申し分ないと思いますが、価格の面で考慮いただき、再度見積書を頂けるようにお願い致します。

尚、価格で折り合いがつきましたら、納入時期はこちらで考慮させて頂きます。誠に勝手なお願いとは存じますが、よろしくお願いいたします。

135. 手紙の内容について正しいのはどれか。

1. 製品をなるべく早く買いたい。

2. 製品納入日の変更は不可能である。

3. 初めての取引である。

4. 見積書の内容に不満はない

写真をとられるときなどに、手をどこにおこうかとかんがえはじめて困惑してしまうことがある。

両手を前で重ねて組むか、後ろで組むか、それとも脇のばしておくのがよいか、手はまったくあつかいにこまるのだ。

それというのも、手や指は否応なしに、その人間の意識の方向や意思や気分などをあらわしだすものであり、その過剰な意味作用が人間のからだをわざとらしく、ぎこちないものにしてしまうからだ。

136. 筆者はどうして困惑してしまうのか。

1. 不必要に意味や感情を表さない位置に置くのが難しいから。

2. 手の位置によって、嘘をついているのがわかってしまうから。

3. 顔より手のほうが過剰な表現が可能で、わざとらしい写真になるから。

4. 手の位置がぎこちないと、自分の気持ちが十分に表現できないから。

写真を撮るということは、そこにある時間と空間を切り取るということである。それは絵を描くこととも、ビデオで撮影することとも違う。もちろん、どちらも写真と同じように時間や空間を切り取ることもできるだろう。しかし、そこにあるのは一瞬の美しさとは違う。

絵は描き手が見たものを移り行く時間とともに一枚のキャンバスに描き出していくことであるし、ビデオは空間を移り行く時間とともに記録していくものである。つまりそれらが切り取ることができる空間には時間の流れが含まれているのである。

日本人は古来より一瞬の美しさ、はかなさを大切にしてきた。それはもちろん仏教からの影響もあるだろうが、日々変化していく自然とともに生活してきた農耕民族にとってはごく自然に生まれた感覚なのかもしれない。日本人が写真を好むと言われる理由にはそういったことが大きく影響しているのではないだろうか。

137. 文章の内容と合っているものはどれか。

1. 絵やビデオでは、そこにある空間や時間を切り取ることができない。

2. 写真が切り取ることができる空間と時間は一瞬のものである。

3. 写真やビデオなどが切り取る空間には時間の流れが含まれている。

4. 日本人は昔から時間の流れを大切にし、自然とともに生活してきた。

勉強をするにあたって意外に大事な要素は動機である。昨今、子どもや大学生の学力低下や勉強時間の減少が問題にされているが、この背景には、勉強に対する動機の低下という単純な問題があると私は考えている。マスコミも文部省も、一丸となって「勉強ばかりしていると人間性が歪む」という意味のキャンペーンを続けている。勉強ができても、ルックスのいい人やスポーツや音楽ができる人ほどは異性にもてず、その上に、将来の地位や収入も保証されないというのであれば、何を動機に勉強すればいいのかは、精神科医でなくても疑問に感じるところだ。そして、貧しさを知らない今の子どもたちは、昔の子どもたちのように、勉強しなければ生き延びていけないというほどの強迫観念を持ち合わせていない。

(和田秀樹「大人のための勉強法」PHP研究所)

138. 筆者の考えとして正しいものはどれか。

1. 学力低下問題の原因には 、人間性などの複雑な問題が関係している。

2. 学力低下問題の大きな要因は、勉強時間の減少や政府のキャンみーンである。

3. いくら勉強しても何の保証もなければ、学習動機を持つのは難しい。

4. 今の子どもたちは将来の地位や収入を動機にして勉強している。

国内の優れた農業従事者が、その取り組みを発表する第61回全国農業コンクール全国大会(毎日新聞社、島根県主催)が、同県出雲市で開かれた。

最優秀の毎日農業大賞を獲得した「やさか共同農場」は、同県浜田市の山あいにある。コメや大豆などの有機栽培とみそなどの食品製造を組み合わせ、ブランド化に成功した。通信販売などの販路も開拓し、年間2億円以上を売り上げる。

40年前に4人で始めた農場は法人化し、現在は35人が働く。農業研修生も受け入れ、若者の就農も支援している。

政府が、昨秋まとめた農業を再生・強化するための基本方針は、第1次産業の農業に、第2次、第3次産業である製造・販売業を組み合わせた「6次産業化」の推進、営業規模の拡大、若い世代の参入促進を柱にしている。

「やさか」の取り組みは、そうした強化策を先取りした好例だ。山あいの過疎地、冬には降雪で農作業もままならない。そんな悪条件、創意工夫で、乗り越えられることを実績で示した。

大会では、多くの発表者が6次産業化の取り組みに触れた。生産者が、民間企業とも連携しながら加工・製造、販売まで一貫して手がけることで、「安全・安心」といったメッセージを伝え、消費者の支持を獲得したケースが目立った。

(毎日新聞2012年7月30日付朝刊による)

139. この農業コンクールについて、本文の説明と合っているものはどれか。

1. 中小規模の農場を支援するためのコンクールである。

2. 年間の営業実績を大幅に伸ばした取り組みが評価される。

3. 全国の農業の関係機関や専門家による研究発表の場である。

4. 大賞の取り組みは、国の方針に合ったいい事例としても高く評価できる。

140. 創意工夫)とあるが、「やさか」の場合は具体的にどのようなことか。

1. 天候の影響の少ない作物を栽培する

2. 自然や農業を売りに魅力的な町づくりを行う

3. 若者の参加を多くして新しい手法を取り入れる

4. 強みのある商品を作り通信販売をする

141. 今回のコンクールではどのような事例の発表が多かったと筆者は述べているか。

1. 生産だけでなく、製造や販売にまで事業を広げたもの

2. 生産者情報を明記して、消費者に安心感を与える方法をとったもの

3. 有機栽培に徹底的にこだわり素材の安全性をアピールしたもの

4. 地域のネットワークを利用して、流通や販売の範囲を拡大したもの

国内旅行中、新幹線で隣り合った男性と世間話をしていたら、実は彼の恋人がよく昼ご飯を食べに行くレストランが、自分の妻の友人が経営する店だった---。こういう出来事に出くわすと、人は「世間って狭いもんだねえ」と感激し、なにか運命的なつながりを感じるものである。もし、この2人が男女であったりすれば、この運命的な偶然のー致をきっかけに距離が急速に近くなり、場合によっては結婚に発展することだって十分にありうる。

だが、① こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうか?仮に日本の人口を1億人として、一人一人が1,500人ずつの知人を持ち、彼らが全国に散らばっているとする。そして、どこかで出会った見知らぬ人と、② 間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがある確率はほぼ100%に近いのである。

それでも冒頭のような出来事にめったにお目にかからないのは、平均的な日本人に知人が1,500人もいないとか、その知人が全国に散らばっていないということもあるが、なによりもお互いに自分のすべての知人について語り合うということがないからだ。根気よく世間話を続ければ、「実はお互いの知人同士が知人」という確率は、私たちが思っている以上に高い。世間は本当に狭いのである。

ある心理学者がこんな実験をした。彼は無作為に選んだ人たちに書類を渡し、それを「Aさんに届けてほしい」と依頼した。書類を渡された人たちは、Aさんとはまったく面識はないし、共通の友人・知人もいない。その学者は「目標の人物をもっとも知っていそうな知人に書類を渡し、書類を受け取った人はさらにその知人へと、その人物にたどりつくまで同じことをくり返すように」と指示したのだ。こうしたサンプルを数多く集めることで、見知らぬ同士が何人の人をはさんでつながりを持っているかを調べよ。うとしたわけだ。

結果は「知らない人同士の間に介在する人の数は2〜10人。5人がもっとも平均的」というものであった。つまり、どんなにエラい(注1)人や有名なスターでも、彼らとあなたの間はわずか数人の人たちによって隔てられているに過ぎず、何かのきっかけで彼らと知り合いになる可能性はあるし、逆に彼らに関するさまざまな情報や秘密がウワサ(注2)として伝わってくることもあるはずだ。確率の世界では、世間というのは我々が考えている以上に狭くて、人びとが密かに関連しあう空間なのである。

142. こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうかとあるが、筆者は確率から考えて、こうした出会いをどう捉えているか。

1. かなり珍しいことであるから、本当に運命的だと考えられる。

2. それほど珍しいことではないから、本当に運命的だとはいえない。

3. よくあることであり、ほとんどの場合運命的だといえる。

4. めったにないことであるが、いつも運命的だとはいいがたい。

143. 間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがあるとは、具体的にどういうことか。

1. 相手が自分と自分の友人を知っていること

2. 自分が相手の知人を2人知っていること

3. 相手が自分の知人を2人知っていること

4. 自分の知人が相手の知人を知っていること

144. ある心理学者がこんな実験をしたとあるが、筆者はその結果についてどのように考えているか。

1. 縁がないと思っている人とも数人の人間を間に挟んでつながっている可能性がある。

2. 知らない人との間には平均5人の人がいて、その全員を知る確率はかなり高い。

3. 知り合いの数は自分で思っているより多いので、知り合いの知り合いに会う確率は高い。

4. 多くの人と知り合いたいと思ったら、自分についてもっと語ることが必要だ。

145. 筆者が考えている、運命的な出会いが少ない最も大きい原因は何か。

1. 平均的な日本人には1,500人も知人がいないこと

2. 1,500人の知人が全国に散らばって住んでいないこと

3. 偶然の出会いがあっても、運命的だと考えないこと

4. お互いに自分のすべての知人について語り合わないこと

外向的、内向的という言葉がある。顔からもある程度それがわかる。その印象は、顔のどこから感じられるのであろうか。

まず、顔の全体が、特に目と眉が内側に寄っていると内向的に見える。内向的という言葉のもともとの意味は、気持ちが自分の内側ばかりに向かっていることである。顔の目や眉などのパーツが内側に寄っていることとは、何ら関係ないはずである。

ところが、考えごとをするときは、自然と顔が内側に寄る。眉間にもシワが寄る。それは、顔を内側に寄せて自分の環境をせばめ、そのなかで深く物ごとを考えようとする姿勢である。

146. どうして顔から性格を判断することができるのか。

1. 性格によって顔のパーツの配置に特徴があるから。

2. 性格や気持ちが顔の表情に影響を与えるから。

3. 顔立ちによって人格形成に影響が出るから。

4. 顔立ちが環境に影響し、性格が変わるから。

多くの人が「威張る」のは良くないと考えています。しかし、「威張る」とは、自分の役割に忠実になることなのです。そして、役割に忠実であるということは、自分の権限と責任を自覚し、それを明確に打ち出す勇気を持つということです。

たとえば、客室乗務員が「お客様、お煙草はサインが消えるまでお待ちいただけないでしょうか」と言うのは、自分の責任に忠実な瞬間です。それは出過ぎたことでもなく、生意気を言っているわけでもありません。教授が学生に「レポートは事務室に提出のこと。自宅に郵送しても採点しない」と言うのは、教師の ① 権限を発揮しているのであり、権威主義や押し付けというわけではありません。

自分の役割を明確に打ち出さないからこそ、後で後悔したり、人に無視されたり、軽んじられたりするのです。組織とは役割の束です。各自が自分の役割に忠実になるからこそ、組織はスムーズに動くのです。 ② 遠慮は無用とはこのことなのです。

ところが、給料が役割に対して支払われているという自覚が足りない人がいます。いつもニコニコして人の和を保っている「好人物」であるという理由で給料をもらっているわけではありません。権限と責任を発揮するという契約を果たすからこそ給料をもらっているのです。つまり、給料をもらうには「気合」がかかっている必要があります。これを私は「威張ることをためらうことなかれ」と少し極端に表現してみたのです。

147. 筆者が言う ① 権限を発揮している例としてふさわしいものはどれか。

1. 妻「お父さん、こっちのネクタイのほうがしいんじゃない」

2. 社員「課長、お昼ですから、そろそろ休みませんか」

3. 駅員「危険ですので、駆け込み乗車はおやめください」

4. 留学生「両親が来るので、明日の授業を休ませていただけないでしょうか」

148. 筆者は、何に対して ② 遠慮は無用だと言っているか。

1. いつもニコニコして人々の和を保つことに対して

2. 自分の役割を自覚して権限を発揮することに対して

3. 自分の役割を明確に自覚していないことに対して

4. 責任を自分以外の他の人に押しつけることに対して

149. 筆者の考えと合っているものはどれか。

1. 威張って、権力をふるう権威主義になるのはよくないことだ。

2. 給料をもらうためには、あまり威張るわけにはいかない。

3. 自分の権限と責任を発揮して威張るのはよいことだ。

4. 自分の役割を明確に打ち出しても、威張ることはできない。

夜の時間に行う野球そのほかの試合を「ナイター」と言っている。「デーゲーム」に対して「ナイトゲーム」といういい方も最近よく聞くが、「試合」のことを平気で「ゲーム」というようになったのは比較的最近のことではなかろうか。

それまでは「ゲーム」というと子供の遊びというニュアンスが強かった。だから、真剣勝負の気合で臨む試合に対して「ゲーム」という言葉を使うのは抵抗があったことだろう。

150. 「ゲーム」という言葉について、筆者はどう考えているか。

1. 最近の試合は真剣勝負ではないので、遊ぶのニュアンスがあっても抵抗がない。

2. 試合は真剣勝負なので遊びのニュアンスが強い言葉を使うべきではない。

3. 遊びというニュアンスが強いので、採用に抵抗があったのは不思議ではない。

4. 子供が遊びでやっているような試合につぃしてのみ使うべきだ。

夜道を照らす街灯や、庭などに置いてある電灯に明かりが灯ると、どこからともなくたくさんの蛾が集まってきます。都市部ではあまり見られませんが、台所や部屋の網戸などに張りついていることもあります。とくにえさがあるわけでもないのに、明かりに寄ってきてはくるくる舞い飛ぶ蛾。

どうして蛾たちは ① このような不思議な行動をするのでしょう。これには二つの説があります。

夜に行動する夜行性の蛾たちには、コウモリというこわい敵がいます。自分たちを捕食するコウモリから逃れるためには、コウモリが嫌う明るい場所にいるのがもっとも安全だと考え、夜になると明かりに寄ってくるという説がひとつ。

もうひとつは、それよりもちょっと有力です。夜、蛾たちは月や星の光を目安に飛んでいます。どちらかの光をつねに一方の側に見ていれば、まっすぐに飛べるからです。ところが、街灯などの明かりは月や星とちがってすぐ近くにあります。そのため、いったん明かりのそばに寄ってしまうと、(  ②  )。光を片側に見ながら飛ぼうとすれば、くるくると光源の周りを舞うことになってしまうというわけです。

151. このような不思議な行動とあるが、それはどのような行動か。

1. 明かりの周りを飛び続ける

2. 都会民家の網戸に張りつく

3. 星や月の光を見ながら飛ぶ

4. 夜になるとえさを探す

152. に入れるのに適当な誄はどれか。

1. コウモリに捕食される心配がありません

2. 月や星にもまして街灯が明るいのです

3. 光から離れがたくなってしまいます

4. もうまっすぐに飛ぶことはできません

153. 蛾が街灯や電灯に集まってくる理由として、筆者が述べている二つの説とはどれか。

1. コウモリから逃れるため 明るい場所にはえさがあるから

2. コウモリから逃れるため 光を目安に飛んでいるから

3. コウモリを取るため 明るい場所にはえさがあるから

4. コウモリを取るため 光を目安飛んでいるから

大きなものから小さなものまで、東京には数え切れないほど公園がある。私はもともと草や樹が好きだったので、公園で時間を過ごすのも楽しかった。

ところが、いつからか、公園の中をのんびりと歩けなくなっていた。まるでラッシュアワーの駅のプラットホームのように、せかせかと歩く自分に気付き、もっとゆっくり過ごしてもいいんじゃないかと自分自身に言い聞かせてみるのだが、それができない。なぜか?と考えても理由はわからなかった。

周囲を眺めると、花壇を囲んだブロック、丸く刈り込まれた樹木、歩道を固めたコンクリート、街灯、箒で掃除した跡……、人の手が入ったところばかり、やたらに目についてしかたがなかった。無理に緑の木々を眺めていようとすると何だか白けてしまって、5分も続かない。これが公園嫌いの始まりだった。

公園は、目的など持たずに時を過ごす場所として、木々や草原を柵で囲っている。私にはそれが庶民に配給されたもののように思えてならなかった。必要な意味のある建物を作った残りの部分をほんの少しだけ分け与えられた土地、そこでゆったりとした時間を過ごして元気になったら、さあ、次は街の中へ戻って働くなり勉強するなりしなさいと、だれかに命じられている気がした。

そう思うと、今度は、自分の ① 暮らしがばらばらに分断され人工化されていることに気付いた自分の部屋、毎日利用する食堂やレストラン、喫茶店、図書館、映画館など、私はそれらを行ったり来たりして生活している。「いいじゃないか、電車を使うほど広い家に住んでいると思えば。」という考えは、私には、気休めにしかならなかった。

私の公園嫌いは、(    )。

(中沢けい『往きがけの空』河出書房新社による)

154. 筆者が公園嫌いになったのはなぜか。

1. 公園がラッシュアワーの駅のプラブトホームのように感じられたから。

2. 公園は休んで元気にならなければならない場所のように感じられたから。

3. 公園の中のものはすべて人工的に作られたものであることに気付いたから。

4. 公園は目的を持たずに自由に過ごせる場所であることに気づいたから。

155. ②「暮らしが、ばらばらに分断され人工化されている」とあるが、どういうことか。

1. 部屋から部屋へ移動するのに電車を使うほど広い家に住んでいるということ

2. 生活に必要なものを得るために、そのつど移動しなければならないということ

3. 生活に必要なものが全て与えられていて、とても便利であるということ

4. 毎日の生活が、規則正しくスケジュ=ルどおりに進んでいくということ

156. (    )入る言葉として最も適当なものはどれか。

1. なんとかおさまった

2. 少しやわらかいできた

3. いっそう強まった

4. かえって弱まった

女性の誇りはいかに質の高い愛をもらったか、いかにたくさん愛をもらったか、ということです。女性はいつの時代も愛されることに命をかけています。世界中の女性がそう思って生きているのです。ほとんど例外はありません。キレイになりたい、という女心は、愛されたいがゆえの願望です。キレイになりたくない、などと思う女性は、百人に一人いるかいないかという確率です。かわいい自分になってたくさんの男性を引き寄せ、その中から質の高い男性を選ぼうとするのが女性というものです。(それ)が女性の戦略です。

(岩月謙司「女は男のどこを見ているか」筑摩書房)

157. それ」は何を指しているか。

1. 男性に愛されることに命をかけること

2. たくさんの男性に愛されたいということ

3. キレイになりたいという女心を見せること¨

4. キレイになることで質の高い男性を得ること

子どものときから、忘れてはいけない、忘れてはいけない、と教えられ、忘れたと言っては叱られてきた。そのせいもあって、忘れることに恐怖心を抱き続けている。忘れることは悪いことと決めてしまっている。

学校が忘れるな、よく覚えろ、と命じるのはそれなりの理由がある。教室では知識を与える。知識を増やすのを目標にする。せっかく与えたものを片端から捨ててしまっては困る。よく覚えておけ。覚えているかどうか時々試験をして調べる。覚えていなければ減点して警告する。点はいいほうがいいに決まっているから、みんな知らず知らずのうちに、忘れるのをこわがるようになる。

教育程度が高くなればなるほど、そして、頭がいいと言われれば言われるほど知識をたくさん持っている。つまり、忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。

ここで、われわれの頭をどう考えるかが問題である。 ① これまでの教育では、人間の頭脳を倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさん詰まっていればいるほど結構だということになる。

倉庫としての頭にとっては、忘却は敵である。ところが、こういう人間の頭脳にとっておそるべき敵が現れた。コンピューターである。これが倉庫としてはすばらしい能力を持っている。いったん入れたものは決して失わない。必要な時には、さっと引きだすことができる。整理も完全である。コンピューターの出現、普及にともなって、人間の頭を倉庫として使うことに疑問がわいてきた。コンピューター人間を育てていたのでは、本物のコンピューターにかなうわけがない。

そこで、ようやく人間の創造性が問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、というのである。人間の頭はこれからも、一部は倉庫の役を続けなければならないだろうが、それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。倉庫なら、入れたものを紛失しないようにしておけばいいが、ものを作り出すには、そういう保存保管の能力だけでは仕方ない。第一、工場に余計なものが入っていては作業能率が悪い。余計なものは処分して広々としたスペースをとる必要がある。そうかと言って、全てのものを捨ててしまっては仕事にならない。

整理が大事になる。倉庫にも整理は欠かせないが、それはものを順序よく並べる整理である。それに対して、工場内の整理は、作業のじゃまになるものを取り除く整理である。この工場の整理に相当するのが忘却である。人間の頭を倉庫としてみれば、危険視される忘却だが、工場として能率を良くしようと考えれば、どんどん忘れてやらなくてはいけない。そのことが今の人間にはわかっていない。それで、工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人が現れる。それでは、工場としても倉庫としても、両方ともうまく機能しない頭になりかねない。

コンピューターには、こういう忘却ができないのである。だから、コンピューターには倉庫として機能させ、人間の頭は、知的工場として働かせることに重点を置くのが、これからの方向でなくてはならない。

158. ①「これまでの教育」とあるが、どのような教育か。

1. 知識の量よりも、知識の密度や質を重視した教育

2. 忘れることを敵視し、記憶力を重視した教育

3. 忘れることの恐怖に負けないように、精神力をきたえる教育

4. コンピューターを上手に使って、多くの知識を蓄積する教育

159. ②「倉庫としての頭」とあるが、どういうことか。

1. 忘れたとき、すぐ補充できるように知識を蓄積できる頭脳のこと

2. 必要な知識を瞬時に取り出せる、とても機能的なのこと

3. 知識をできるだけ多く蓄積するスペースとしての頭脳のこと

4. コンピューター以上に保存、保管、整理の能力がすぐれた頭脳のこと

160. ③「整理が大事になる」とあるが、どういうことか。

1. じゃまになる知識を忘れることが大事だ。

2. 今ある知識を順序よく並べることが大事だ。

3. 知識の蓄積を危険視することが大事だ。

4. 知識を能率よく作り出すことが大事だ。

161. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. コンピューターの出現によって、知識の量を問う教育は無意味となったもはや、学校で忘却を敵視するべきではない。

2. コンピューターの出現によって、知識の量を問う教育だけでは不十分となった。今後は、創造性をより重視するべきだ。

3. 人間の頭を倉庫として働かせるか、工場として働かせるか、それが問題だ。両方は難しいため、どちらか一方に重点を置くべきだ。

4. コンピューターは、倉庫としての機能は非常にすぐれている。今後はさらに、コンピューターを知的工場として働かせるべきだ。

子供の成長のために、母親の愛はかけがえのないものである。身近に自分を保護してくれるもの(母親)がいるという安心感にささえられていてこそ、子供は、正常な成長をとげることができる。

母親が、何らかの事故でいなくなってしまったサルの場合、子ザルはかなり大きくなっても、ほとんど動こうとせず、仲間にもうちとけていくことができない。したがって、母ザルの愛を欠いた子ザルは、群れ(社会)の正常なメンバーとなることは難しい。

162. 母ザルの愛を欠いた子ザルは、どうして群れの正常なメンバーになることができないのか。

1. 成長が遅く、なかなか大きくならないから。

2. 動きが鈍く、事故にあうことが多いから。

3. 母親がいないと、群れから追い出されるから。

4. 心が不安定で、仲間ができないから。

学生が農村調査などに出かけると、農家の人たちは、学生さんがきた、というのでしばしば丁重に扱ってくれたりする。しかし、そういうときが、じつはいちばん ① 危険なのだ。丁重に扱われることによって、学生はじぶんたちのほうがえらいのだ、という錯覚におちいる。そしてその錯覚のゆえに、教えを乞う、という謙虚なこころをいつのまにか失ってしまう。

学生だって、大学教授だって、ほんとうはちっともえらくなんぞありはしない。知らないことだらけなのである。知らないからこそ、ひとに会って教えてもらおうとしているのである。肩書きがどうあろうと、教えを乞うているかぎりは学ぶ立場にいる。その学ぼうとする謙虚なこころが、ひとに話をきくときの基本的心がまえでなげればならぬ。

相手が農民であろうと、タバコ屋のおばあさんであろうと、取材する相手は、大げさにいえばわれわれにとっての教師なのだ。ひとにものをきくときには、いささかなりとも尊大な気持をもってはいけない。尊大な取材をする人は、けっして真実の情報を手にいれることもできないだろうし、そういう人にはおよそ知的な進歩も期待できない。

このことはジャーナリストにとってもあてはまる。新聞社の名刺を出せば、いわゆるコワもて、というやつで、どこにでもかなり自由に出入りできる。そのことから、ジャーナリストは不当な自負心をもち、尊大になりがちだ。しかし、それはジャーナリにとっての最大の ② ワナなのである。そのワナにひっかかったがさいご、そういう人物は ③ けつして大成できないと知るべきであろう。

じっさい、わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。肩ひじ張って眼光するどい――そういうタイプの人はテレビの記者ものには登場するがそれはけっしてじつさいの名記者のイメージではないのである。ほんとうの名記者は、しずかで、たのしい人物たちなのである。その人がらが、すばらしい取材能力を決定している、といってもさしつかえないだろう。かれらはひとに話をきくにあたっての基本的な作法、つまり、謙虚さを人がらのなかにそなえているのである。ひとに教えを乞うという態度――それは当然、感謝の念とつながってゆく。そして、なんらかのかたちで感謝のこころをあらわす、ということが、しぜんとものをきく作法のなかに反映されてゆくのである。(中略)

話をきいたあとで、たとえハガキ一本であろうと、こころがこもっていればそれでもじゅうぶんだ。教えをうけたことにたいする感謝――そのこころを素直にもてるかもてないか、いささか道徳的な話になってしまったが、そのこころ構えがものをきく作法の基本条件だ、とわたしはかんがえている。

(加藤秀俊『取材学 探求の技法』中公新書による)

163. 筆者が ① 危険だと感じるのはどのようなことか。

1. 自分たちのほうが立場が上であると勘違いすること

2. 農家の人たちと学生との間で意見が対立すること

3. 正確な情報が手に入りにくくなること

4. 農家の人たちに精神的な負担をかけてしまうこと

164. ワナとはどういう意味か。

1. 失敗

2. だまされること

3. 落とし穴

4. 障害

165. けっして大成できないのはなぜか。

1. 新聞社に勤める自分が優れていると錯覚した結果、取材相手に感謝の気持ちを示さないようになり悪い評判がつくから。

2. 新聞社に属することに甘えて謙虚さを忘れ、その結果、相手から情報を引き出せず、よい取材結果を残せないから。

3. どこでも自由に出入りでき、何もしなくても基本的な情報が得られるので、つい努力を怠ってしまうから。

4. 社会的信用のある新聞記者といえども、見た目が怖く冷たい印象の人は相手から警戒され、取材がうまくできないから。

166. 筆者が考える大記者、名記者とはどんな人物か。

1. 自分が何も知らないことを自覚して、知的な進歩を続ける、誰からも尊敬される人物

2. いつも穏やかで、相手が誰であっても謙虚な姿勢で取材をし、感謝のこころをきちんと示せる人物

3. 真実を追求する情熱と、ほかの人にはたどり着けない情報をキャッチできる鋭い感覚を持っている人物

4. 謙虚で優しい人がらから誰にも好かれ、取材の後も個人的に付き合いたいと思わせる人解

定年に備えた企業の研修資料に<「自分」―「仕事」=?>とあるのを見て、会社一筋に働いてきた人には厳しい設問だなあ、と思ったことがある。事実、会社人間だった大阪の友人はこの設問に「ゼロや」と苦笑して、定年後の近況を話す。「女房が出掛けようとすると、(注)ワシも行くと言うもんやから、すっかり嫌がられてるよ」こういう定年亭主を「恐怖のワシも族」と言うのだそうだが、今やさぞかし ①「ワシも族」がはびこっていることだろうと思いきや、ニッセイ基礎研究所の「定年前・定年後」という本にこんな調査結果が収められていた。数字は省くが、仕事に生きがいを持っていた人のほうが、そうでない人より定年後の社会活動にもずっと生きがいを感じているという内容で、要するに、会社人間ほど定年後も意欲的という分析だ。

彼らの社会活動の生きがいは、交友関係の広がりによって生まれているようで、植木職人になったり、NPOやボランティア、地域活動に携わっている元銀行員をはじめ、多種多様なケースがいろいろ紹介されている。以前、あれは有力銀行の支店長であったか、定年退職した途端、年賀状も激減するなど一変した状況に喪失感を覚え、自ら命を絶ったという話を聞いたことがある。これなどは極端なケースだとしても、<「会社」のために頑張る価値観は、「社会」のために頑張る価値観と合致するかもしれない>と分析される先の調査結果などは、会社人間の「その後」に ② 新しい視点をもたらすものだろう。

(近藤勝重「しあわせのトンボ:会社人間の『その後』」2007年11月14日付毎日新聞夕刊による)

(注)ワシ:わたし

167. 筆者の友人が、<「自分」―「仕事」=?>という設問に「ゼロや」と答えたそうだが、それはどのような意味か。

1. その友人はこれまで一つの仕事しかしてこなかったので、ほかの仕事は全然できないという意味

2. その友人は仕事一筋に生きてきたので、これからも家族と一緒に何かしようとは考えていないという意味

3. その友人は生活のすべてを仕事中心に送ってきたので、定年後は何もすることがないという意味

4. その友人は定年後に生きがいを見つけ、会社生活で得たものはゼロだったと感じているという意味

168. ①「ワシも族」とは、どのような人たちのことか。

1. 奥さんが何かしようとすると、なんでも一緒にしたがる定年後の夫

2. 奥さんばかりでなく、家族の皆からも嫌がられている定年後の父親

3. 会社に出かけて行くよりも、家で奥さんと一緒にいるのが好きな夫

4. 定年退職後、自ら進んで家事や社会活動に積極的に参加したがる夫

169. 新しい視点をもたらすとは、どのようなことか。

1. 退職後には多種多様な仕事の選択肢があるから明るいと感じること

2. 会社中心に過ごしてきた人ほど、家での仕事に積極的になれること

3. 会社人間ほど定年後の社会活動に意欲的であるととらえられること

4. 定年後に生きがいがない人でも、社会的な活動には期待できること

川は、人生と自然との関わりを深く結びつける空間である。ひとが自分の人生のイメージを川の流れに重ね合わせる場といってもよく、ひとの人生を形づくっていく経験が貯蓄される場であるといってもよい。

川のもつ変化の相は、それを体験する人間の経験の豊かさの諸相でもある。川は人びとにさまざまな経験を与え、人生を豊かにする可能性をもつ。人生を豊かにするということのなかに、川のもつ「流れ」がある。

しかし、河川事業を行うとき、しばしばこの根本的な性格が見落とされる。「エジプトはナイルのたまもの」というように、川はまず恵みを与えてくれるものであるはずなのに、しばしば ① 河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっている

特に都市の場合、洪水の原因はといえば、人間が土地を舗装し、地面に水が吸い込まれなくなったことなど、人為的な原因があるにもかかわらず、そのために起こる洪水の恐怖、リスクを先に置き、「自然の脅威」とか「牙をむく自然」とかといった自然を擬人化して敵対的な表現が用いられる。

170. 筆者は川と人生をどう考えているか。

1. 川の流れの変化を見ていると、人生を考える手がかりになる。

2. 川が水や食べ物を与えてくれなかったら、人生はつまらない。

3. 川を見ていると人生を形づくるために自然が必要だと感じられる。

4. 川のある空間で人生を考えると、豊かな発想が生まれやすい。

171. 河川事業を説明するパンフレットは、洪水の図から始まっているのはなぜか。

1. 洪水は自然の脅威そのもので、どうしても防ぎたいから。

2. 都市の川は本来の恵みを与えず、よく洪水を起こすから。

3. 洪水の怖さを強調したほうが河川事業の必要性を示せるから。

4. 都市では人為的な原因で洪水が起こり、川は人間に敵対するから。

172. この文章の内容に最も近いものはどれか。

1. 人間の生活に川は不可欠だが、洪水のために河川事業をするのは仕方がない。

2. 豊かさを表すはずの川の流れを、人間に敵対するように表現するのはよくない。

3. 豊かさを表す川の流れに、自然を破壊する河川事業をするべきではない。

4. 川は人間の生活に不可欠だから、人間に敵対するように捉えるのはよくない。

心は目に見えない。だから客観的に知ることはできない。ならば、心とか意識なんて面倒なことを考えるよりも、目で見える、定規で測れるものだけを考えることにしよう。そう考える人がいても不思議ではない。

行動主義心理学と呼ばれるこの流派では、サルやネズミなどにレバー押しなどの行動を訓練し、その行動から動物の心を探っていく。しかし動物に「まずはレバーを押してみてください」と頼むわけにはいかない。例えば、初めて実験室につれてこられたサルは、そもそもレバーにさえ気づかないからだ。

では、サルにどうやってレバーを押させるのか?ポイントは二つ。ひたすら待つ。そして少しずつ目標に近づける。

例えば、サルが少しでもチラッとレバーを見たとする。そこですかさずエサを与える。これを何度か繰り返すと、サルの注意が次第にレバーに向いてくる。ここでいったんエサやりを止める。するとサルは、うろつきまわったりキョロキョロしたり、色々なことを試し始める。ここが我慢のしどころ。試行錯誤の中、サルの手がレバーに伸びるのをじっと待つ。そして手が少しでも伸びれば、すかさずエサを与える。

こうして、適切なタイミングでエサをやりながらがふら、少しずつ目標の行動に近づけていくのである。

私はこのやり方を、大学院生の頃、助手の先生に教わった。それは教科書に書いてあるとおりのことだったが。実際にやってみると、それは衝撃の体験だった。

エサやりのボタンを右手に持ち、白黒のモニターごしに、サルの行動をじっと見つめる。私はエサに念じていた。「振り向け、レバーに振り向け」。伝わらない思いを伝えたい。ふいにサルがレバーに近づく。と、すかさず「エサやり」というメッセージを送る。それは紛れもなくコミュニケーションであった。

この訓練をずっとやっていると、徐々にサルの気持ちがつかめてくる。そして、気持ちがつかめてくると、訓練は格段に早く進む。行動だけを見よといいながら、その実、うまく訓練するにはサルの心がつかめていなければならないのだ。心は行動からしかつかめない。しかしそれがつかめたとき、手の中にサルの心があるように思えてくる。そのとき私は、学問の本当に大事なことは、教科書には書いていないことを知ったのだった。

173. サルにレバー申しをさせる目的は何か。

1. サルを訓練して、人間の意図を読み取れるようにすること

2. サルを訓練して、動物だけが持つ見えない能力を開発すること

3. サルの行動を通して、動物に対する人間の心の動きを探ること

4. サルの行動を通して、目に見えない動物の心や意識を研究する

174. この実験室の訓練で、人間はサルに対してどのように対応しているか。

1. サルをレバーの近くに連れて行き、目標の行動をしたらすぐにエサをやる。

2. サルがレバーを押したらエサを指し示し、目標の行動をするまでじっと待つ。

3. サルにレバーを指し示し、人間が期待する次の行動をしたらすぐにエサをやる。

4. サルがレバーを見たらエサをやり、人間が期待する次の行動をするまでじっと待つ。

175. そのときとは、どんなときか。

1. 「エサやり」というメッセージを繰り返し送ることで人間とサルの行動の違いがわかったとき

2. 「エサやり」というメッセージを送る過程を通して、サルの心がつかめたと感じたとき

3. レバー押しの訓練が進むにつれて、サルが筆者の心をわかってくれたと感じたとき

4. レバー押しの訓練によって教科書には書かれていないサルの行動が解明されたとき

176. 筆者がこの訓練をしてわかったことは何か。

1. 動物を目標に近づける訓練では、「エサやり」を通して動物が人間に慣れることが大切だ。

2. 動物を訓練するためには気持ちをつかむことが重要であり、それは自分で体験して初めてわかる。

3. 動物の心理を探るためには、まず教科書に書いてあるとおりのことを実践することが大事だ。

4. 動物の心をつかむには目に見える行動だけに注目することが大切だが、そのことは教科書に書いていない。

心理学の用語で「知覚の選択性」というものがある。私たちは、外界の情報をすべて知覚しているわけではなく、無意識のうちに自分に必要な情報だけを取り込み、処理しているということだ。

これは例えば、騒々しいパーティー会場でも話し相手の声は聞き取れることと関係している。一方、会議の様子を録音したものを聞くと、周囲の雑音がすべて入っているため、かなり聞きづらい。

それでは、自分に必要な情報は何かと言えば、それは知覚主体の知識・期待・欲求・注意等の要因によって異なる。それらの要因で無意識に情報が取捨選択されているのだ。

177. 「知覚の選択性」に関連するものはどれか。

1. 子どもがいくら「早く寝なさい」と弓われても、聞いていないふりをすること。

2. 周りの話し声が煩わしいので、電車やバスの中でイヤホンをすること。

3. 車の免詐を取ると、それまで目に入らなかった道路標識の存在に気がつくこと。

4. たくさんのチラシが並んでいるときに、カラフルなデザインのものに目が行くこと。

思春期を迎えた最近の子どもがストレスに弱いのは、それまでの発達過程で適度にストレスにさらされる経験を十分にへてこなかったことが深く関係している。しかもそれは、彼らが社会化を十分に逐げてこなかったことと等しい。

というのも、10代前半までの子どもは、それまでの生活圏を出てより広い社会的文脈のなかでいかにして事故を実現させるかという課題に取り組むなかで、もっとも強くストレスを味わうからにほかならない。

178. 筆者は、思春期を迎える前の子どもにとってどんな経験が必要だと考えているか。

1. 家庭の外の社会で多くの社会問題に取り組む経験

2. 日々の生活の場で自分自身を向き合うような経験

3. 広い社会の中で自分を鍛えることができるような経験

4. 日常生活の中で個人の発達段階に応じた役割を担う経験

情報技術(IT)の進歩に伴い、ITを使いこなせる人とそうでない人の間で得られる情報量の違い、いわゆる「情報格差」が生まれている。

この情報格差は、IT化とは別の側面からも生じ得る。そのつが、外国人などが言語の問題で情報にアクセスできないことだ。

その対応策とし、多は言語によろ情報提供が進められている。例えば東日本大震災の際にもインターネットやラジオを通してさまざまな多言語情報が発信されたが、現在の課題は、その「伝達方法」である。

いくら情報を発信しても相手に届かなければ意味がない。情報が屈くには、発信メディアが日頃から外国人民に広く認知され信糈されるものになっていなければならない。

179. この文章によると、多言語による情報提供の現在の昆題は何か。

1. 英語や屮国語などメジャーな言語に限らず、より多くの言語に対応すること

2. インターネットやラジオだけではなく、多様な情嶺技術を活用すること

3. ITに精通していない人でも簡単に情報が得られるようにすること

4. ここにアクセスすれば情報が得られるという安心感を利用者に抱かせること

我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(注1)になる。言葉の風呂敷はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、① そんな錯覚に捕えられる

木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうは ② これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。

人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。

人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて(注2)不毛になる。

与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。

子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、物知りたちの大風呂敷を指して言うのではない。

(前田暎樹「独学の精神」による)
(注1)大風呂敷:実際より大きく見せたり言ったりすること
(注2)ひからびて:乾ききって
(注3)物知り:物事をよく知っている人

180. そんな錯覚に捕えられるとはどういう意味か。

1. 自分は何でも知っていて世界を相手にできると思う。

2. 言葉でどんなことでも伝えられるような気になる。

3. 学問から得られることには限界がないと感じてしまう。

4. 人間が世界から学べることはいかに大きいことかと思う。

181. ② これとは何を指すか。

1. 自分にできることを把握したうえで仕事をすること

2. 自分が世界のために何ができるかを考えて仕事に励む

3. できる限り多くの知識を得て自分の仕事に役立たせること

4. 人のためにできることは何かを考えたうえで仕事をする

182. この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

1. 与えられた土を耕し、よい苗を選んで植える。

2. 与えられた土を耕し、よい作物になるように苗を育てる。

3. 与えられた土壌を改善するために耕し続ける。

4. 与えられた土壌を改善しながら世界標準の作物を育てる。

183. 筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

1. 新たな気質を見いだすことができる学問や思想

2. 人それぞれの気質の中で育まれた学問や思想

3. 生きていくうえで必要な専門的な知識

4. 書物や学問から得られた多くの知識

戦前までは、健康ということは病気をしないことでした。腸チフス、赤痢などの急性伝染病や、肺結核、脚気など慢性疾患が多かった時代には、このような病気の治療と予防がまず大切で、そういう病気にかからないことで健康が意識されていました。

しかし戦後、病気の様相も変り、人々の意識も変化して、健康の概念もより幅広く積極的な意味になってきました。今日もっとも多くの人々から支持されている「健康」の定義は、次のようなものです。すなわち国際連合の部局の一つに、世界保健機関(WHO、WorldHealthOrganization)という機関があります。WHOの「国際疾患分類」はわが国の行政にも採用され、日々の医療や医療統計に役立っています。

このWHOは次のように「健康」を定義しています。「健康とは、単に病気が存在しないというだけではなくて身体的・精神的ならびに社会的に充分に良好な状態をいう」。つまり健康を身体と精神、さらに社会的な面の三つに分けて、それぞれの要素を重視した概念を提唱しています。この定義は、人間が身体的のみでなく、精神的ならびに社会的存在であることをよく理解した、すぐれた表現であるといえるでしょう。

(吉川政己『老いと健康』岩波書店による)

184. 戦前における健康な状態とは、どのような状態を指すか。

1. 心身ともにすこやかな状態であること

2. 心身のみならず、社会的にも良い状態であること

3. 心の状態はともかく、体に病気が存在しない状態であること

4. 身体に病気がなく、社会的にも充分に良好な状態であること

185. 戦前と戦後で健康の定義が変化したのには、どんな背景があるか。

1. 病気の種類や医療の内容に変化が生じたため、人々の健康に対する考え方が多様になったこと

2. 急性伝染病の特効薬が開発され、人々が簡単に死ななくなったこと

3. 世界保健機関(WHO)が設立され、健康の定義を行い、世界に知らしめたこと

4. 医療技術の発達により急性伝染病や慢性疾患の患者が減り、人々が病気を恐れなくなったこと

186. 筆者は、なぜWHOの「健康」の定義がすぐれた表現であると考えるか。

1. 人間が社会的存在であることをきちんとふまえているから

2. 人間が生きる上で、病気でないことが何よりも大切だという考えだから

3. 心と体のバランスが大切で、そのために社会の安定が欠かせないという考えだから

4. 病気にならないことこそが大切だとして、病気予防を最も重視しているから

才能というのは誰でも同じようにあるわけではないし、勉強の才能がない人がそれ以外の才能を持っているという保証もない。それでも、様々な才能があり得るわけだし、自分の才能を探して、そこで頑張って心楽しくなれる人もきっと大勢いると思う。

もちろん、何をやってもダメだということもあり得るわけだし、それは仕方がないことである。

重要なことは、自分で自分のやり方を決定し、余り後悔しないことである。才能があってもなくなっても、自分なりの規範を見つけ、その中で自足することができれば、人は善く生きられると私は思う。

187. 筆者がここで最も言いたいことは何か。

1. 才能のあるなしにかかわらず、自分自身を認め満足できるとよい。

2. 勉強の才能がない人が、自身にほかの才能を見出すことは難しい。

3. 自分の才能を探して努力することで、私たちは善く生きることができる。

4. 才能は誰にでも同じようにはないが、ない場合はあきらめることだ。

技術者にとってレース車を開発するというのは、非常に魅力があるようなのだ。それはそうだろう。市販車の開発であれば、コストのことや工場のことを考えなければいけないので、自分の考え出した創意工夫を必ずしも反映できるわけではない。いいモデルを出したからといって、営業の力が弱ければ売れるとは限らない(少なくとも、多くの開発技術者はそう思って(注1)は歯軋りをしているに違いない)。しかし、レース車であれば、ある程度、採算無視で色んなことにトライできる。何よりも、営業力とか他の要素に邪魔されることなく、① どんな大メーカーを相手にも対等に優劣を争うことができるわけだ。逆にいうと、言い訳のない世界でもある。敵よりコンマ1秒でも遅れをとれば負けるのだ。そして、それは、はっきりとその場で目に見える。

(中略)

目標設定も単純だ。市販車開発なら、時にはアメリカとおう欧州の両市場で売れる車を作ってくれると営業から要求されたりする。そこでは技術的に妥協せざるを得ないが、レースは絶対的な速さだけを目指せばいいのだ。その代わり、自分の実力が今どうであれ、敵の車が75秒で(注2)サーキットを1周していれば、それより速いタイムで走る車をつくらないと意味がないのだ。 ② 出来る、出来ないを論じる余地は全くない。また、お分かりのように、他チームの車の真似だけをしていれば、決して「最速」にはならないのも真実なのだ。

(田中詔一『ホンダの価値観―原点から守り続けるDNA』による)

(注1)は歯ぎし軋りをする:ここでは、悔しく思う

(注2)サーキット:レース用のコース

188. どんな大メーカーを相手にも対等に優劣を争うことができるとあるが、なぜか。

1. 創意工夫する力さえあれば売れる車がつくれるから

2. 性能さえよければ採算のとれるレース車がつくれるから

3. 営業力に邪魔されずに価格で勝負できる車がつくれるから

4. コストなどの要素に影響されずにレースで競える車がつくれるから

189. 出来る、出来ないとあるが、何が出来る、出来ないのか。

1. 自社の最高タイムを次のレースで上回ること

2. 技術的に妥協するしかない場合には妥協すること

3. ライバル社より少しでも速く走れる車をつくること

4. アメリカやおう欧しゅう州のレースでいい成績をおさめること

190. この文章によると、レース車の開発は、技術者にとってなぜ魅力的なのか。

1. 高い技術力が示せれば世界で認められるから

2. 自社が持っている技術力の高さを証明できるから

3. 明確な目標に向かって開発だけに集中できるから

4. 開発者としての実力が大メーカーからも評価されるから

援助することは簡単そうで、案外難しい。特に緊急を要する援助は判断が難しい。

人が倒れている、といっても横になっているだけかもしれない。野に火の手が上がっている、といっても焼畑かもしれない。その時、どう判断するか。

大きな要因となるのは周りの人の判断や行動である。その行動をみて、自分も判断する。しかし、その人だって確信があるわけではない。やはり周りをみて行動しようとする。

お互い、相手の行動をみていて動かない。誰も動かないので、動かないことが基準となって、緊急性はないという判断が働く。つまり援助丘勲がをされない。これを援助行動の相互抑制効果という。

191. 援助行動がなされないのはなぜか。

1. 相手が喜ぼうが喜ぶまいが、援助は自己満足に過ぎないから。

2. 動かないほうが、本来楽であり、人間は楽なほうを選びやすいから。

3. 緊急時にどう援助するかは、判断に時間を必要とする場合が多いから。

4. 互いに互いの行動をみていて、誰も動かない結果、緊急性なしと判断するから。

日本では、2012年7月から飲食店での生レバーの販売が禁止された。ある食中毒事件を契機に、生肉に対する規制が一気に強化されたのだ。しかし、危険すなわち規制.禁止でいいのだろうか。衛生管理の技術の向上に伴い、現代の消費者は店で提供されるものはすべて安全だと思い込み、食べ物に関する知識が少なく、食に対して完全に受け身になりつつある。安全面をメーカーや飲食店に委ねる消費者と、リスクを恐れる行政が意識を改めない限り、いつか生卵や莿身が食卓から消える日が来るかもしれない。

(注)レバー:食用にする、牛.豚.鷄などの肝臓

192. 筆者の考えに合うものはどれか。

1. 食の安全を重視するのであれば、他の生食への規制も視野に入れるべきだ。

2. 安易な規制。禁止より、飲食店に衛生管理を徹底させることが重要だ。

3. 販売禁止の決定は消費者の白巾意志を奪うものであり、疑問を感じざるを得ない。

4. 食の安全を守るには、消費者が食への意識を高めることも込要である。

日本は今、空前のジョギングブームで、美容のために始める若い女性が急増中である。

では、ジョギングはどんな状態で行うのがよいのか。医師によると、あまり空腹の状態で走るのはよくないということだ。血糖値が低い状態で運動すると、脂肪がうまく燃焼せず、ダイエットの効果が上がらない。それどころか、命にかかわることさえある。

ジョギング中、急に力が抜けたような感じになったり、冷や汗が出たり、胸がドキドキしてきたら、ただちに走るのをやめ何か食べると回復する場合があるとのことだ。

193. 筆者は、空腹の状態でジョギングをするのはなぜよくないと言っているか。

1. 空腹の状態だと血糖値が低いので、脂肪が燃えないばかりか、体に非常に危険だから

2. 空腹の状態でジョギングすると、運動後に何かを食べたときに血糖値が急上昇するから

3. 空腹の状態では脂肪が燃焼せず力が出ないため、急に倒れたりすることがあるから

4. 空腹の状態でジョギングすると、体温調節や心臓の機能に異常が起こって危険だから

日本人は「建て前」と「本音」を使い分けると、よく言われる。しかし、国際社会の中で日本がそれをうまく活用しているかといえば、そうではない。自らの本音をきちんと意識できず、それを通すための政治力も発揮できず、ただアメリカ追随(大勢で日本の国益にかなうと思っている方向)に動いているのが実情だ。だから、アメリカの顔色を見て右往左往している。国際社会の場では、*日本は自らの論理力のなさを露呈(注)と言える)。

国際関係の場合、「国際平和」などという道徳、倫理にかなう建て前以上に、各国の国益という本音が複雑に絡み合、国力による発言力の強さが大きくものを言うだけに、外交の場は単純に論理力だけで通用するわけではない。とはいえ、多くの国々を納得させるためには、論理力が大きな力を発揮するのは確かだ。日本の国際的な地位が、経済力に比べてあまりに低いのは、論理力の弱さにあるといっても、あながち間違いではないだろう。

(樋口裕一『頭の整理がヘタな人、うまい人』大和書房)

(注)露呈:隠れているものが表れること

194. どうして「日本は自らの論理力のなさを露呈している」と言えるのか。

1. 建て前と本音をうまく使い分け、国際社会の中で力を発揮しているから。

2. 自分の本音ではなく、アメリカの顔色にしたがって動いているから。

3. 各国の国力ではなく、単純に論理力だけで通用すると思っているから。

4. 日本の国際的地位が、経済力に比べてあまりにも低いから。

日本料理に欠かせないのが出汁だ。和風の出汁の取り方は難しくはないが、料理のたびに出汁を作るのはかなり面倒だ。出汁の取り方も種々あるが、最もよく使う昆布と鰹節を使った出汁の取り方は以下の通りだ。

(1)水4カップに昆布8gを鍋に入れ、蓋をしないで火にかける。
(2)お湯が沸騰する直前に昆布を取り出す。
(3)沸騰したら、鰹節20gを入れて、すぐに火を消す。
(4)鰹節が沈んだら、布巾を使って、出汁をこす。

一回ごとに作るのは面倒なので2、3日分作って冷蔵庫で保存する人もいる。それも面倒だとあって多くの人が今ではインスタントの出汁を使っている。インスタントの出汁はそのまま食材に混ぜて使うのが一般的だ。最近では出汁に醤油やみりん、酒などを混ぜた液体のつゆの素が便利だと人気が高い。つゆなら醤油やみりんなどの分量を考える必要もない。誰もが失敗なく煮物などの日本料理ができる。

ところで、海外で日本料理を作りたいと思っても調味料がなくてできない場合がある。出汁についてだけなら西洋料理でよく使われる調味料で代用することができるそうだ。驚いたことにケチャップで代用できるらしい。ケチャップをほんの少し使うことで日本の味ができる。ちょっと試してみたらどうだろうか。

195. 正しい出汁の取り方を述べているのはどれか。

1. 昆布は水に鰹節はお湯に入れる。

2. 昆布と鰹節の両方を一緒に鍋に入れる。

3. 昆布と水は蓋をしないでよく煮る。

4. まずお湯を沸騰させてから昆布を入れる。

196. 著者はどうして驚いたのか。

1. ケチャップがおいしかったから。

2. ケチャップをかけたら和風味になるから。

3. 海外では出汁が手に入らないから。

4. ケチャップが出汁の代わりに使えると思わなかったから。

197. 最近の人は和風の調味料をどう使っているか。

1. ケチャップを使うようになった。

2. 本格的な出汁を作らなくなってきた。

3. 出汁を取つて長時間保存するようになった。

4. つゆの素のほうが出汁の素より使われている。

日頃見なれている景色ー例えば、自分の家の玄関の造りや庭の佇い、などーが、ある時、ふと、まるで初めて見るときのように新しく、珍しくかんられるという経験をしたことはないでしょうか。

そのような時、私たちは日常、眼でものをめているつもりで、それでいて実は何も見ていなかったのだということを感じます。

言葉についても、同じことです。

日頃使い慣れている言葉ですから、私たちは自分の使う言葉については何でも分かっているつもりですが、ふとした機会に、実はそれが勝手な思い込みであったことに気づいて、はっとすることがあります

198. 筆者はなぜはっとすることがあると言っているか。

1. よく知っているものでも、初めて見た時のことを思い出すことがあるから。

2. よく知っているはずのことが思い出せないことがあるから。

3. 珍しい経験の後では、よく知っていたものが新鮮に感じられるから。

4. 知っているつもりのことをよく知らなかったことに気づくから。

最近、地域内の複数個所に自転車の貸し出しをする専用ステーションを設けて、自転車シェアリングのサービスを行う自治体が増えている。環境保護や地域おこしをねらいとした事業だ。

最寄りの駅から目的地までの移動などに公共の自転車が利用できれば、さぞかし便利だろう。ところが、まだ成功といえる事例は少ない。

背景には、どの自治体も、町にあふれかえる個人の自転車の管理に頭を抱えていることがある、人々の駐輪マナーの低下は、駐輪場の不足によってさらにエスカレートしている。まずは目の前の問題をどう解決するか、そっちのほうが先のようだ。

199. 筆者は、自転車シェアリングのサービスを実施することについて、どう考えているか。

1. メリットの多い自耘車シェアリングを推進すれば、今ある自転車の問題を解決できるかもしれない。

2. ひとまず現在の自転の問題を解決し、自動車シェアリングについては後でまた考えればよい。

3. 自転車シェアリングはメリットも多いので、今ある自転市の問題の解決と同時進行で実施していくのがよい。

4. 自転ポシェアリングにはまだまだ未解決の問題も多いので、当分の間は実施の込要性はない。

最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッセーや小説、詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。

ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現形式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。

たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。

(中略)

考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこ、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命いただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。

200. かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。

1. 自然

2. 生命

3. 感謝

4. 作法

201. この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。

1. 自然の中で生きるための思想や、農業や村のあり方についての思想

2. 自然を壊さずに暮らすために、農業や村人はどうあるべきかという思想

3. 自然に対する感謝を表すために、村人としてどうするべきかという思想

4. 自然を取り戻すための思想や、自然を利用する農業のあり方についての思想

202. 食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。

1. 多くの労力がささげられて作られた食べ物が、いかに尊いものであるかという考え方

2. 何かを食べないでは生きてはいけない人間のあり方が、いかに罪深いものであるかという考え方

3. 食事は農が生み出したものをいただくものであり、農業を営む村人への感謝が必要という考え方

4. 食事は他の生命を自分の身体に取り入れるものであり、それらの生命に感謝しなけばいけないという考え方

203. この文章中で筆者が述べていることはどれか。

1. 思想の表現は必ずしも文章や作品というかたちをとるとは限らず、かたちにならないものもある。

2. 思想は絵や音楽のようなかたちに表わされるものと考えられてきたが、深い思想はかたちにならないものである。

3. 思想の表現は絵や音楽などもあるし、かたちにならないものもあるが、文章で表現されたものが最上のものである。

4. 思想は文章や作品のようなかたちになったものが尊重されるが、生活と結びついた深い思想はかたちにならないものである。