最近はテレビのコマーシャルにクラシック音楽が盛んに登場して、しかもそれが驚くほど新鮮な魅力を持っていたりする。

しかし、こうしたことがすぐに ① クラシック音楽の普及につながるなどと考えない方がいいだろう。クラシック音楽は難しいという人は結構多い。彼らが口をそろえて言うのは、曲が長くて途中で退屈してしまう、暗く閉ざされたコンサート会場で長時間物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということだ。

このことは、つまりクラシック音楽というのは、長い曲を聴き通すこと、それも何かをしながらではなく集中して曲全体を聴き通すことであり、旋律やリズムや音響といった現象的な快楽にとどまらない、総合的でドラマティックな体験であるということを示している。

もちろん細部が全体に劣るわけではないだが、② 曲全体という世界の中に位置づけられることで、細部は、それだけで存在する以上の意味を持つことができる

しかし、コマーシャルの15秒のクラシック音楽は、そういう体験にはほど遠い。それはたしかに作品の一部には違いないが、その向こうに作品全体を暗示することのない、むしろ作品という根から切り離された、個別的で快楽的な現象である。

だから、コマーシャルにクラシック音楽が続々と登場し、それが感動を誘っているとしても、かならずしもそれで人々が容易にクラシック音楽に導かれるとは考えないほうが良い。

ともかく、こうしたことは音楽の受け止め方が変質しつつあることを示しているのではないだろうか。

(岡田敦子「永遠は瞬間のなかに」品社による)

204. ①「 クラシック音楽の普及につながるなどと考えない方がいい」と筆者が考える理由は何か。

1. コマーシャルに使われるクラシック音楽は、作品全体と切り離されてしまったものだから。

2. コマーシャルに使われるクラシック音楽は、作品全体が次第に変質していったものだから。

3. コマーシャルに使われるクラシック音楽は、もとの作品全体を15秒に縮めたものだから。

4. コマーシャルに使われるクラシック音楽は、もとの作品の一部であることに違いないから。

205. ②「曲全体という世界の中に位置づけられることで、細部は、それだけで存在する以上意味を持つことができる」とあるが、どういうことか。

1. 曲全体を聴くよりも、一部分だけ聴いた方がより深い感動が得られる。

2. 世界的に有名な曲は、一部分を聴いただけで曲全体が分かるものである。

3. 世界的に有名な曲は、一部分を聴いただけでも深い感動が得られる。

4. 曲を部分に分けないで、全体的に聴くことでより深い感動が得られる。

206. クラシック音楽について、筆者の考えに近いものはどれか。

1. クラシック音楽は難解で、一曲が長すぎて退屈である。

2. クラシック音楽は、旋律などの現象的な快楽を体験するものである。

3. クラシック音楽は、じっと座って聴かなければならないのが苦痛である。

4. クラシック音楽を聴くことは、総合的でドラマティックな体験である。

本来、人間は集団本能をもった社会的動物で、社会を離れて生存することは不可能だといわれます。ところがいっぽう、人間の頭脳には個を主張する前頭葉(注1)があって、常に全体と個の調和が求められます。だから全体と個のバランスがうまくとれなければ、社会に適応することはできないのです。このバランスがうまくとれるかどうかは、幼児期の教育だいで決まります。

(井深大「幼稚園では遅すぎる」サンマーク出版)

(注)前頭葉:脳の一部

207. このバランス」とは何と何のバランスを指しているか。

1. 集団と社会

2. 社会と自我

3. 頭脳と体

4. 社会と適応

楽天家の父から、「人は知らず知らずのうちに、最良の人生を選択している」と教わってきました。人生は、色々と枝分かれした分岐点の連続ですが、おのずとその最良の道に向かっていると。

そう考えると、すべてが楽です。目先だけ見ると失敗でも、後で振り返った時、その失敗が成功につながる道であったりする。

人生は、近道ばかり行こうとすると、そこに落とし穴があるかもしれない。少し遠回りした方が良いのかもしれません。

208. 筆者がここで最も言いたいことは何か。

1. 最良の人生の選択は、目先の失敗から最良につながる道である。

2. 最良の人生を選択するためには、楽天的であることが大切だ。

3. 人生の分岐点に立った時、容易な道ではなく困難な道を選ぶべきだ。

4. 今現在の失敗にとらわれず、いつかは成功につながると考えて進むべきだ。

液晶画面で見るいわゆる電子ブックも、今のところ紙で出来た本にとってかわるほどの勢いはない。

たしかに書籍の出版は、世のデジタルな進歩だけでは追いつけないものを持っている。書かれた中身だけが「本」ではないのだ。

装丁はもちろん、手に取ったときの感触やにおい等のデジタルなものにない物理性や、または目に見えないこだわりもそうだ。一冊の本は紙で出来たひとつの表現なのだ。

しかし、そう考えると逆に、別に ① 「本」である必要のないものが本になって出回っている気がしないでもない。本屋で平積みになった新刊を眺めていると、表現である以上に紙で出来た商品に思えてしまう時が多いのだ。

(近田谷大『僕の読書感想文』国書刊行会による)

209. ①「本」である必要のないものがとはどのような本のことか。

1. 電子ブックなどデジタルな本

2. 書かれていることが少ない本

3. 装丁や手 に取った感触が思い本

4. 売ることだけを目的に作った本

現在、活動を停止することは必ずしも休息を意味しない。活動を停止するためには、活動を停止するための活動が必要であり、それはしばしば、そのまま活動し続けるよりも、大いなる活動となる可能性があるからである。

今日では、いったん停止された活動が、そのままの状態で持続されることは、ほぼ ① 考えられないのだ。停止を持続するために、絶えざる働きかけが必要であり、しかもその働きに要するエネルギーは、停止期間が長びけば長びくほど増大する。従って多くの人々は、活動を持続している期間より、それを停止している期間に、より大いなる疲労を引き受けることになる。

言うまでもなく、② かつてはそうではなかった。活動は活動として独自に保証され、その停止は停止として、これまた独自に保証されていたのである。活動がひとつの状態であれば、その停止もまたひとつの状態であるのはともかく、その停止は「非状態」としてしか確かめられなくなりつつあるのである。

現在多くの人々が、他から強制された活動停止の時間―いわゆる「待ち時間」を、独自に体験することが出来なくなりつつあることにお気付きであろうか。

210. 筆者は、どんなことが ① 考えられないと言っているのか。

1. 活動し続ける

2. 停止続けること

3. 活動が大いなる活動であること

4. 停止が大いなる活動であること

211. かつてはそうではなかったとあるが、以前はどうだったのか。

1. 活動も停止もなかった。

2. 活動も停止も同じものだった。

3. 活動も停止も認められていた。

4. 活動も停止も認められていなかった。

212. 本文の内容と合うものはどれか。

1. 現在は、活動を停止するのが難しい時代である。

2. 現在は、活動を停止することが休息を意味する時代である。

3. 現在は、活動の停止をまったく必要としない時代である。

4. 現在は、活動の停止が多い時代である。

理系の文章は明確な目的を持っている場合が多いので、その目的に応じて読者は文章を読む。このため、目的に合致した文章は満足感を読者に与える。

たとえば、「東京都の交通渋滞に関する調査報告書」はそれを知りたい人が読み、その内容が過不足なく記述されていれば100点の評価となる。調査内容が不十分であれば評価は下がり、満足感は少なくなる。

しかし、もし著者と読者のあいだで、その文章を媒体として記述されていること以上の事柄が発見できれば、読者にとって最高の満足感となる。言い換えると、読者が新しい知識を発見する喜びを支援する、あるいはそのきっかけとなる文章こそが、100点以上の評価となる。

それは著者と読者の ① シナジー効果(二つのものから、それらの合計以上のものが生み出される効果)であり、それをもたらすには、著者は常に読者を意識し、読者とともに問題の解決にあたるという姿勢を持つことで文章に磨きがかかる。

いくら仕事や理系の文章だからといって「AはBだ、覚えておけ」という姿勢の文章では読者の満足感は少ない。むしろ、読者は自分の無知を知り、自己嫌悪に陥り、一方、著者への親近感はなくなり、読む気がしなくなる。

文章の目的を達成するために大事なことは、読者が最後まで読んでくれることである。いくら素晴らしい内容が書かれていても、読者が読む気のしない文章は目的を果たすことができない。学生のレポートで、② それが一番よくわかる

なにしろ提出数が多いので、すべてを完全に理解しようとして読むことは不可能である。結局、最初の数行を読んで、あるいは全体を見渡して、読む気が起こるかどうかが評価に大いに影響する。これは、上司に提出する企画書や、(注1)コンペに応募する提案書などでもまったく同じである。その意味で、人の読む気を誘う文章であるかどうかは重要である。

では、読む気とは何か。それこそがシナジー効果である。(中略)

読者が自力で新しいことを発見することの支援はなかなか難しい。むしろ、自分の思考過程を深く分析し、読者と一緒に考えようという姿勢を持つことが最も重要である。読者に与える完全な解答はなくても、解答に向かうひたむきな姿勢を示すことができれば良いのだということである。

言い換えれば、ごまかしがなく、技巧を(注2)弄もてあそばず、大げさにいえば著者の人生観を示すことで、真実に迫ろうという書き手の気持ちが読者に通じるのである。

仕事の文章や理系の文章は、一般にはこういう行間の意味は不要と考えられているが、それではの教科書文章となり、人の心に届かない。いくら人の ③ 脳に届いても、心に届かないものは読む気がしなくなり、結局、読者の脳にも届かなくなる。

(三木光範『理系発想の文章術』による)
(注1)コンペ:ここでは、仕事の依頼先を選ぶために企画を競争させるもの
(注2)弄もてあそぶ:ここでは、必要でないのにむやみに使う
(注3)無む味み乾かん燥そうの:味わいがなくてつまらない

213. シナジー効果とあるが、読者にとってのシナジー効果とはどのようなものか。

1. 記述されている内容から、求めていた以上のことが得られる。

2. 著者が伝えようとしている事柄を理解し、知識を増やす。

3. 読むことを通して事実を知り、不十分な点を自覚する。

4. 文章から足りない知識を補い、疑問を解消する。

214. それが一番よくわかるとあるが、何が一番よくわかるのか。

1. 読み手に満足感を与えるのは難しいということ

2. 素晴らしい内容でなければ読んでもらえないこと

3. 読む気がしないものは終わりまで読んでもらえないこと

4. 読んですべてを理解してもらうことは不可能だということ

215. 脳に届いても、心に届かないとはどういうことか。

1. 技巧には感心しても、内容には共感できない。

2. 行間の意味は理解できても、内容には感動できない。

3. 書き手の姿勢は理解できても、気迫までは感じられない。

4. 内容は理解できても、書き手の気持ちは伝わってこない。

216. 理系の文章の書き手はどのような姿勢を持つべきだと筆者は述べているか。

1. 読者の読む目的を分析し、読者に過不足のない情報を与えようとする。

2. 読者を意識しつつ、しん真し摯に解答を求めてその気持ちを伝えようとする。

3. 読者に満足感を与えるよう、妥協せずに完全な解答を提供しようとする。

4. 読者の読む気を最後まで誘うよう、読者の思考過程を深く分析しようとする。

生命とは動的平衡(注1)にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。

しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろうか。その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性(注2)にある。

生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で ① 動的な平衡状態を保ちえているのである。

② ジグソーパズルのピースは次々と捨てられる。それはパズルのあらゆる場所で起こるけれど、それはパズル全体から見ればごく微細な一部に過ぎない。だから全体の絵柄が大きく変化することはない。

そして、新しいピースもまた次々と作り出される。重要なことは、新しく作られたピースは自らのかたちが規定する相補性によって、自分の納まるべき位置をあらかじめ決定されているという事実である。

ピースはランダムな熱運動を繰り返し、欠落したピースの穴と自らの相性を試しているうちに、納まるべき場所に納まる。こうして不断の分解と合成に晒されながらも、パズルは全体として平衡を保つことが可能となる。

(注1)平衡:バランスがとれて安定している状態そうほせい
(注2)相補性:互いに補い合う性質

217. 生命はどのように ① 動的な平面を保ち得ているか。

1. 壊れたタンパク質の場所に合った新しいタンパク質が補充される。

2. あるタンパク質が壊れると、周囲のタンパク質が増えてそこを埋める。

3. タンパク質は壊れる前に、自分と同じタイプのタンパク質を作る。

4. タンパク質は壊されながら、絶え間のない流れに沿って移動していく。

218. 筆者は、② ジグゾーパズルのピースを何の例えとして使っているか。

1. 複雑な全体を構成するもの

2. ぴったりのものを見つけにくいもの

3. 似ているが、少しずつ異なるもの

4. 捨てられてもすぐに補完できるもの

219. 筆者は、生命をどのようなものだと主張しているか。

1. 常に変わらずに全体の平衡を保つもの

2. タンパク質で全体が構成されているもの

3. ランダムな熱運動の継続によって流れていくもの

4. 分解と合成を繰り返しながら維持されるもの

生老病死をなぜかみな嫌がります。できれば考えたくない。そこでどうするかというと、たとえば人間が生まれるのも特別なことだから、病院へ行ってくれというのです。そうして、お産は現在ほとんど病院で行われている。
(中略)
生老病死の最後の死ぬところですが、これも都会ではもう90%、いや99%の人が病院で亡くなります。

私の母は、95年の3月、自宅で死にましたが、いつの間にか死んでいました。しかし大半の人々は病院で死にます。このように死ぬ場所が病院に移ったのはここ25年の傾向で、急速にそうなりました。以前は半分以上が自宅で亡くなっていました。

では、自宅で亡くなることと、病院で亡くなることの違いは何かーーー。これは、我々が普通に暮らしている [A] の中に、[B] がなくなってしまったということなのです。だから、死が特別なことになった。そして特別なことは特別な場所で起こることになったのです。そんな現代は、よくよく考えてみると、大変な異常事態なのです。

生老病死というのは、人の本来の姿です。こっちが先で、何千年何万年も続いてきた間違いのないことなのです。都市よりも文明よりも何よりも先に生老病死があった。だから私はこれを「① 自然」と呼ぶのです。人の一生は好きも嫌いもなく時期経過とともに変化していく。それが自然の姿なのだと私は思う。なのにいまは自然つまり本来の姿であるほうが異常になってしまった。

かけがえのない未来を大切にしていない典型的な例をあげてみます。私は95年の3月に東大(注)をやめました。正式には94年の9月の教授会でやめることが決まりました。

教授会のあと同僚の病院の先生が来られて、「先生、4月からどうなさいますかと話されるのです。」「3月でおやめになるそうですね」「やめます」「4月からどうされるのですか」。これは、勤めはどうするのですかという質問です。私は「私は学生のときから東大の医学部しか行ったことがないので、やめたら自分がどんな気分になるかわかりません」と申し上げました。「やめてから先のことはやめてから考えます」と。

するといきなり「そんなことで、よく不安になりませんな」と言うのです。思わず「先生も何かの病気でいつかお亡くなりになるはずですが、いつ何の病気でお亡くなりになるか教えてください」と言い返してしまいました。「そんなこと、わかるわけないでしょう」と言うなら、「それでよく不安になりませんな」と申し上げました。

ここで ② はっきりわかることがあります。特に東大のお医者さんです。大学病院ではしょっちゅう患者さんが亡くなるので、人が死ぬということが、自分の仕事の中にきちっと入っています。ところがそういうお医者さんが、自分が死ぬということに現実感を持っていない。自分が病気になって死ぬことよりは、勤めをやめたりやめなかったりする、そのことのほうがよほど重要なことだと思っているのです。

(注)東大:東京大学

220. [A]と[B]に入る言葉の組み合わせはどれか。

1. A:家庭 B:祖父母

2. A:社会 B:秩序

3. A:生活 B:余裕

4. A:日常 B:死

221. 筆者が ① 自然と考えるものはどれか。

1. お産がほとんど病院で行われていること

2. 母が自宅でいつの間にか死んでいたこと

3. けが人が数急車で運ばれる途中に亡くなること

4. 死ぬ場所がここ25年で、急速に病院に移ったこと

222. 筆者は、どんなことが ② はっきりわかると言っているのか。

1. 医者であっても、退職した後の生活に不安を持っている

2. 医者であっても、自分の死を現実的にはとらえていない

3. 患者より自分の生活が大切だと考える医者は、東大の医者とは言えない

4. 東大の医者がもっときちんと仕事をすれば、病院で亡くなる患者は減る

223. 筆者の考えに最も近いものはどれか。

1. 現在の医学では生老病死を逃れることができないのだから、もっと医学に力を入れる必要がある。

2. 人は生まれて、年とって、病気になって死ぬのが自然のなりゆきだから、将来を心配する公要はない。

3. 生老病死を嫌なもの、考えたくないものとせず、逃れることはできないものだと自覚することが大切だ。

4. 生老病死は予定されていることだから、もっと計算して将来に対して対策を立てておくべきだ。

病気というものはいずれにしろ不愉快なものであるが、最近流行の「健康病」というのは、定義どおり、本人は病気と思っていないので、それによる被害が潜行(注)するところが恐ろしい

健康病とは、簡単に言ってしまうと、ともかく「健康第一」で、そのことにひたすらかかずらわり、他のことは無視してしまう。それから生じる近所迷惑などお構いなし、という点で、「ほとんど病気」の状態であるが、本人はそれに無自覚である場合のことを言う。

(河合隼雄「こころの処方箋」新潮社)

(注)潜行:気づかれないまま進むこと

224. 恐ろしい」とあるが、なぜか。

1. 健康病の人間はいずれ、肉体的にも本当に病気になってしまうから。

2. 健康以外のことは考えられなくなってしまう上に、本人が無自覚だから。

3. 近所迷惑などで、本人が気づかないまま、他人に嫌われてしまうから。

4. 健康のことしか考えず、周りの人から無視されても気がつかないから。

眼が意味ある形を見ようとするあまり、無意味な形にまで意味を与える例をこれまで見てきた。ところが、眼はまったく存在しないものを「見る」力があるのだ。といっても超自然な能力のことではなく、だれの眼にも備わっている力なのである。

図を見てみよう。二つの図とも、中央にははっきりとした輪郭をもつ三角形が見えるはずだ。ところが、目を近づけて見てみると三角形の輪郭などまったく描かれていないことがわかる。客観的に存在しない輪郭を、①眼が主観的に見てしまっているのである。

そこで、このようにして見える輪郭を、心理学では、「②主観的輪郭」と呼ぶ。

再び図を見てみよう。上図では、主観的輪郭が描く三角形が背景の白よりもいっそう白く見え、下図ではいっそう黒く見える。実際に描かれている図形よりも、主観的輪郭が描く図形の方が、くっきり見えるのである。そして、後者は前者の上にかぶさっているようにも見える。

主観的輪郭が描く図形は、三角形など直線的なものばかりでなく、図のように曲線が形づくる図形である場合もある。このようなときにも、図に見た主観的輪郭の特徴は共通である。

なぜ客観的には存在しない主観的輪郭が見えるのか。イタリアの心理学者カニッツァーによれば、その理由はおおむね次のように説明される。

眼は、いつも意味あるより単純な形を求めている。もし眼前に複雑で意味を見つけにくいものが見えているとき、眼は不安定になる。だが、それがある形によって隠されているために無意味になっているのであれば、その隠しているものの形を見定めることにより、眼は安定するのである。その形が主観的輪郭が描く形なのである。

この説明は、主観的輪郭線の特徴をもよく説明してくれる。主観的輪郭が描く図形が他を圧してくっきりと見えるのは、主観を補強して、この描かれていない形を確かなものとして見ようとするためである。背景となる図形にかぶさって見えるのは、③そのことが成立条件なのだから当然のことである。

存在しないものを見る。だから、この主観的輪郭は錯視のひとつとされている。しかし、現実空間でも、実際にはないものを見てしまうということは、あり得ることである。やはり、主観的輪郭は、眼の力のひとつの現われではないのだろうか。

225. 眼が主観的に見るとあるが、ここではどういうことか。

1. 眼に写った形を頭の中で解釈して、意味のある形として見る。

2. 同じ形でも、見る人によって解釈が異なり、異なった形として見る。

3. 目を近づけて注意深く見ないため、間違った形として見る。

4. 見るときの距離や明るさで、異なった形として見る。

226. 主観的輪郭の特徴として文中にないのはどれか。

1. 実際には輪郭がないのに、あるように見える。

2. 実際に描かれている図形の上にかぶさって見える。

3. 図形が直線でも曲線でも見える。

4. 人間だけが持つ特殊な能力である。

227. そのこととは何か。

1. 複雑で意味のない形を見たとき、眼が不安定になること

2. 眼がいつも意味のある単純な形を求めていること

3. ある形によって、背景となる図形の一部が隠されていると見なすこと

4. 主観的輪郭が目を近づけると見えなくなること

228. この文章が、述べようとしていることは次のどれか。

1. 目に映ったものを常に意味のあるものとして把握しようとするのは、一つの能力だ

2. 人はものを見るとき、主観的に解釈せず正確に見るよう心がけなければならない。

3. 人の眼は不正確で、客観的にものの形を把握することができないから、注意すべきだ。

4. 人間の見る能力には限りがあり、錯覚に惑わされないようにすることが大切だ。

私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。

数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、① 大きな福音に思えだ。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。

しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しで埃をかぶってしまうようになった。

それは、名刺サイズにするためにキーを小さくており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。

そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。

もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んでのである。

(注)ミーハー: 程度の低いことに熱中しやすく、流行に左右されやすい人

229. 筆者には、なぜ ① 大きな福音だと思えたのか。

1. 機械の操作に弱い私でも、その電卓なら簡単に使えそうだったから。

2. 出はじめの商品で、まだ誰も持っていないカード電卓だったから。

3. 同僚たちに自慢ができて、私のミーハー心を満たすことができたから。

4. 持ち運びに便利なカード電卓は、必要なときにいつでも使えるから。

230. それは何を指しているか。

1. 出はじめのカード電卓を同僚たちに自慢した理由

2. 発売されてすぐ手に入れた名刺サイズのカード電卓

3. 私が名刺サイズのカード電卓を買った理由

4. 私が名刺サイズのカード電卓を使わなくなった理由

231. 名刺サイズのカード電卓を使ったことで、筆者がわかったことは何か。

1. 定期入れと一緒に持ち歩くのは、故障の原因になるからよくない。

2. 電卓には、電卓として使いやすい大きさというものがある。

3. 電卓は、薄ければ薄いほど持ち運びやすくて便利なものだ。

4. 初めて発売されたときは、値段が高いから買わないほうがいい。

私は芸術の存在理由を、一般に考えられているように個人の内面の表現のためにあるより、人間理解あるいは ① 人間関係の創造のためにあると思っています。われわれが何かを表現し、それを公にする場合、他者あるいは第三者というものを前提としない活動の持続も、専門的な行為の成立もないからです。

ではこの人間関係の創造とは、何であるのか。それはある人間がどういう関係や状況に置かれているのか、どういう可能性をもっているのか、あるいはどういう感受性(注1)をもっているのかをまず明らかにすることです。そしてそこからさらに発展して、いったいこの人間といわれるものは何なのか、そういうレベルでの問いかけを多くの人々と共有することです。つまり、ある表現行為を契機にして他人と共に人間について考え、想像することです。そういう目的で芸術行為の存在は貴重だと私は考えています。

たとえばベートーヴェンの音楽を聴いて、われわれは ② 人間を想像し、人間を理解しようとすることができます。これは絵画にも同様に言えます。しかし、人によっては「音楽とは音ではないか」「絵画とは色ではないか」「演劇のように生身(注2)の人間が出てこない」という人がいるかもしれません。そして「なぜそれが人間について想像させるのか」と疑問をもつ人もいるでしょう。

私が言いたいことは、それが創られた音であり色であるということです。われわれが日常では感じられない音であり色なのです。にもかかわらず、というよりそれだからこそと言うペきでしょうが、われわれは思わずそれに注意を集中させられてしまうことがあります。これはいったい何なのかと。また、そうした音や色を創りだすために自分自身の全エネルギーを捧げる人間とはいったい何なのかと。

音楽でも絵画でも文学でも、さらには演劇でも、すべて人間が創りだしたものです。そうした ③ 人間が創造したものを通して、われわれは日常で慣れ親しんだ考え方や見方とはちがったように人間を想像し、またそのことによって人間関係について考えることがあるのです。

(中略)
いままで多くの人々に励ましを与えてきた価値ある芸術作品は、多様な人間関係や社会を成り立たせている(コミュニケーション・システム)がわれわれに与える感受性や考え方を変更しうる力をもっています。そのためにわれわれは芸術家という人間の存在に、われわれの想像力を誘われたのであり、人間というものがそれに所属しないでは生きていけないような社会の在り方について考えさせられたのです。

(鈴木忠志『演劇とは何か』岩波書店による)
(注1)感受性:外からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力
(注2)生身:実際の体

232. 人間関係の創造とは、どういうことか。

1. 芸術を通して人間関係への理解を深めること

2. 芸術を通して多様な人間関係を構築すること

3. 芸術作品の作者の人間関係を想像すること

4. 芸術作品の中の人間関係を読み解くこと

233. 人間を想像し、人間を理解しようとするのはなぜか。

1. 芸術を理解するには、その作品が創られた背景を知る必要があるから

2. 絵画や音楽には複雑な人間模様が表現されていることが多いから

3. 芸術は単なる音や色ではなく、創った人間と切り離せないものだから

4. 偉大な芸術作品の作者は、複雑な境遇に生きた人が多いから

234. 人間が創造したものに当てはまるものはどれか。

1.

2. 宇教

3.

4. インターネット

235. 筆者は優れた芸術作品とはどのようなものだと考えているか。

1. 社会制度やコミュニケーションの仕組みを変える力を持っているもの

2. その作者の生きた人生や社会について想像力を掻き立てられるもの

3. 鑑賞する人がその世界に没頭し、日常を忘れることができるもの

4. 人間や社会についての見方に新しい価値観をもたらしてくれるもの

科学や技術によって世の中が進歩すればするほど、人間も進歩し、人間は善くなり、悪人はいなくなるなどと考えることは、どうも幻想にすぎないのではないだろうか。 ① そんなことをもし学校で子供たちに教えているとしたら、それは欺瞞(注)にすぎない。文字どおり、子供だましである。

愛すべき人間は多い。それは事実だ。しかし信用できない人間、かくれてだます人間、人を傷つけて知らぬふりをしている人間の数も、それに劣らず多い。それも事実だ。

そして科学技術が進めば進むほど、② そのような人間も多くなってゆくだろうことを、学校教育は強力に子供たちに教えるべきである。

「通常、人間は機会さえあれば、悪いことをするものである」とすでに古くアリストテレスは言っている。

日本のような他者志向型の文化のなかでは、人びとの頭のなかには「人間はみな善人で信ずべき存在である。他人を疑ってはいけない」という甘い考え、あるいは根拠のない幻想がしみついている。だから学校でもそのように子供に教える。まるで子供に目をつぶらせて、狭い平均台のうえを渡らせるようなものだ。オモテばかりを教えて、ウラを教えない教育は片手落ちというべきである。疑うべきものはきちんと疑うように教えるぺきなのだ。

(注)欺瞞:だますこと

236. そんなこととあるがどんなことを指しているか。

1. 科学や技術の発展で世の中が進歩し、世界に悪人がいなくなるという考え

2. 科学や技術を人間が進歩させることができるというのは幻想であるという考

3. 人間は、科学や技術の発展にかかかわらず悪いものであるという考え

4. 人間は、科学や技術の発展で世の中を変えることはできないという考え

237. そのような人間とは、どのようなものか。

1. 愛すべき善い人間

2. かげで悪事を働く人間

3. 信用できる甘い人

4. 悪事を子供に教える人間

238. 筆者は子供にどのようなことを教えることが必要だと言っているか。

1. 子供に他人を疑うことを教えない大人を信じてはいけない、という事実

2. アリストテレスの言葉に代表される、人間の本質をついた考え

3. 人間のなかにはいつも悪人も疑うべきものも存在しているのだということ

4. 人間はみな善人になりうる、という日本に根付いた他者志向型の文化

結婚しない人が増えているというが、先日、ある調査で独身男女の結婚観に開きがあることが分かった。

一昔前までは、「男は外で働き、女は家を守る」という考えが男女ともに主流であったが、最近の男性は結婚相手が自分より年収が高くてもいい、女性にもある程度は稼いでもらいたいと考えている人が7割を超えるという。不況の今、自分の収入だけで妻子を養う自信はない。だから女性にも稼いでほしいという本音がうかがえる。

一方、女性はというと、「自分が働かなくても家計が成り立つ人と結婚したい」と考えている人がほとんどだった。女性の社会進出が進んだ今でも、高収入の男性と結婚し出産後は専業主婦に、という価値観はまだまだ支配的なようだ。

こういう独身男女を「わがままだ」と非難するのはたやすいが、貧富の差が広がる、いわゆる「格差社会」という現実に直面している彼らにしてみれ場、しかたのないことなのだろ。経済的不安を抱える男女が結婚相手に高収入を期待するのは無理もない。

ここで、新たな可能性がうかがえるのは、高収入の女性と低収入の男性のカフプルだ。だが、これにも条件がある。女性は、「男が家族を養うものだ」という従来の価値観を捨てること。男性は「家事は女性が」と言わずに、しつかり家事をこなす力を身につけることだ。

そこからは、きっと明るい未来が見えてくる。ともかく、男女双方、お互いに努力しなければ、今以上に独身男女が世にあふれることになるだろう。

239. 「独身男女の結婚観に開きがある」 が、どういうことか。

1. 女性の会社進出が進んで、男女間の済格差が広がっているという

2. 男は古い価値観のままだが、女性の価値観が変わっているということ

3. 男女ともに、価慎観が古い人と新しい人の差が広がっているということ

4. 済的な面で、男性は女性を、女性は男性を当てにしているということ

240. 「しかたのないことなのだろ」と筆者が考える理由は何か。

1. 経済的自信のない者が相手を頼りにするのは当然だから

2. 格差社会では、若者がわがままになるのは当然だから

3. 経済的な格差が進み、貧困層が増えるのは当然だから

4. 独身時代の男女が主観的でわがままなのは 然だから

241. そこからは、きっと明るい未来が見えてくるとあるが、筆者の考えに近いものはどれか。

1. 結婚しない男女が増えれば、格差社会の問題は解決できるだろう。

2. 女性が男性を養うことができれば、経済的不安はなくなるだろう。

3. 男性が家事の能力をつければ、少子化や晩婚化は解決できるだろう。

4. 男女が互いに古い価値観を捨てれば、新しい夫婦が増えるだろう。

職場というのは、本当に不思議な存在だと思います。家と同じように、「いってらっしゃい」といって送り出し、「お帰りなさい」といって迎えてくれる職場もあれば、お互いに声をかけることなく、誰がいつ出社したのか、退社したのかさえわからない、そんな職場もあります。人が集まれば、そこに何らかの感情の交流が起こります。お互いによい感情を伝え合うことができれば、職場が家庭のように自分が帰る場所、自分の居場所になっていれんさくのに、負の感情が連鎖してしまうと、自分を追い詰める場所、関わりたくない場所に変わってしまいます。

(高橋克徳「職場をイキイキさせる方法」本2009年10月号講談社による)

242. 筆者のここで最も言いたいことは何か。

1. すべての職場での人間関係は家族的であるべきだ。

2. ほかの社員の行動を気にしすぎるのはよくないことだ。

3. 現在の職場はすべての社員にとって生きづらい場所である。

4. 互いの努力によって、職場を居心地のよい場所に変えられる。

脳とコンピューターが似ているのは、いずれも計算や記憶ができるからだ、と思っている人がいます。しかし、計算や記憶をするのはあくまでも脳であって、コンピューターはパソコンやメモ用紙のような道具に過ぎないのです。

両者が似ているのは、その基本的な仕組みです。脳の主役は神経細胞ですが、その細胞からは細くて長い神経線維という糸が出ています。そして、その神経細胞の先端は別の神経細胞に接触するという形で、次々とつながってゆきます。その接触するところをしナップスとよんでいます。

つまり、脳は神経細胞またはシナップスを結び目とした巨大な神経網ということができます。その点が、多数の素子が配線で結ばれているコンピューターと似ているのです。

243. 脳とコンピューターの似ているところはどこか。

1. 基本の要素が網のように結ばれているところ

2. 計算や記憶できるところ

3. シナップスのような結び目があるところ

4. メモ用紙のような道具だあるところ

行列にもいろいろある。そして、行列は、私たちの生活に必要なものでもあり、重宝なものでもある。電車の切符を買うとき、スーパーのレジで、銀行のカードで金の出し入れをする自動の機械、あれは何と言うのだろうか、あの機械を使うとき、タクシー乗場やバスの停留所で、私たちは行列するが、あれは私たちの社会生活のルールであり、当然である。

けれども、回転ずしの空席待ちの行列などには、他ではいけないの、と言いたくなる。食べ物屋には、よく行列ができる。うまい店だからであろう。だが、そういう行列を見ると私は、他にもうまい店は、たくさんあるのに、と思い、① ズレを感じる

そう言えば、以前、青山五丁目の小さなパン屋に、何日間ぐらいだっただろうか、パンを買う人の長い行列ができたことがあった。パンが焼き上がる時刻が近づくと、数十メートルの行列ができる。親に、学校の帰りに買って来い、と言われたのであろう、ランドセルを背負った子供も並んでいた。

ところが、その行列は、間もなく消滅した(  ②  )。行列のなくなってから、私ためしにその店のパンを買って食ってみたが、うまいパンであった。だが、他の店のパンもうまい。行列してまで入れなければならないほどのものとは思われなかったあのような、瞬間的流行のような行列もある。

244. ズレを感じるとは筆者のどのような気持ちを表しているのか。

1. 行列ができる店だけがおいしい店だとは限らない、という気持ち

2. 回転ずしやパン屋にいつも行列ができ、感心する気持ち

3. スーパーのレジやタクシー乗り場で待たされ、不愉快な気持ち

4. 人気の食べ物屋が行列で買えず、不満に思う気持ち

245. (  ②  )に入る文はどれか。

1. その店のパンがまずくなったからではない

2. その店のパンがまずくなったからである

3. その店が閉店したからである

4. その店のパンが値上がりしたからである

246. 筆者は文中で行列を 2 種類に分けている。その分け方として正しいものはどれか。

1. 回転ずしの空席待ちの行列と、パンを買う行列

2. 生活に必要な行列と、社会的に価値のある行列

3. 食べ物屋にできる行列と、機械の前にできる行列

4. 社会生恬のルールである行列と、瞬間的流行のような行列

衝突することを恐れていたのでは、他人と親しくなることができない。人間はお互いにかなり親しくなっても、お互いを完全に理解しているものではない。理解しているつもりでも誤解していることはあろう。そして、衝突することを恐れていると、その誤解がとけないまま関係が維持されることになる。相手のやることで何か不愉快なことがあった時、もし本気で親しくなろうとすれば、それをはっきりという方がいいだろう。相手は不愉快だといわれてはじめて、なぜ自分はそれをしたか、ということが説明できる。

(加藤諦三【「思いやり」の心理】PHP研究所)

247. それ」は何を指しているか。

1. 相手にとって不愉快なこと

2. 本気で親しくなろうとすること

3. 相手にはっきりいうこと

4. 相手と衝突しようとすること

診察室でときどき、「この先、生きていても、これ以上いいことはなさそうな気がする」「やりたいことはだいたいやってしまったので、ここで人生が終わってもまあまあ満足」という言葉を聞くことがある。それも、七十代、八十代の人の口からではなく、二十代や三十代の若い層からだ。
(中略)

おそらく彼らは、「何と何をやったから、もう自分の人生に悔いはない」と具体的な決意を述べたいのではなく、「なんとなく楽しい時期はもうすぎてしまった」という気分を表現したいだけなのだろう。
(中略)

では、この「終わった」という感覚はどこからやって来るのか。おそらく原因には個人的な要素が強いものと、社会的な要素が強いもの、ふたつが考えられるだろう。まず個人的なほうだが、いまの若い人たちには「楽しいのは十代のうちだけ」という価値観が広がっているように思える。最近、フィギュアスケートやゴルフなどで注目を集めた選手は十代。繁華街にあるファッションビルでいちばん元気がいいのも、十代をターゲットにした商品が扱われているショップだ。逆に「おとなにならなければできないこと」は減り、お金さえあれば、十代が高級な寿司屋やレストランに出入りしても、誰にも文句は言われない。そういう状況にあって、
「ハタチを過ぎれば、もう楽しいことはない」と考える人が増えてもおかしくない。

しかし、若い人の「終わった」という感覚の背景には、もっと社会的な要因もあるのではないだろうか。すなわち、高度経済成長期や文化の爛熟期などを過ぎて、バブル崩壊後の長期不況を経た現在、日本全体に「楽しい時期は終わった」という感覚が広まっているのではないか。冷蔵庫やクーラーもまだなく、誰もが物質的な豊かさが心の豊かさに通じると信じて疑わなかった昭和の時代を懐かしむ映画やドラマが盛んに作られていることからも、多くの人が「昔のほうが今より楽しかった」と思っているという雰囲気が伝わってくる。リアルタイムで昭和の時代を経験していない今の十代でさえ、
「どうやら元気のいい時代は終わったらしい」と感じているのではないだろうか。

あえて言えば、「もういいことはない」と言っている人が年をとったのではなく、その人がいる社会自体が年をとった、ということなのかもしれない。社会や国にも年齢があるのかどうかについてはいろいろな議論もあるだろうが、「途上国」から「成長国」、そして「安定国」へ、という国の歩んできたプロセスは、人間のライフコースになぞらえることができる。
(中略)

いまさら経済力を高め、他国との競争に勝ってさらなる豊かさを追求するよりも、“よい老い方”を模索して実行し、後に続く国の手本になる方が得策だと思うのだが、そういう声もなかなか大きくならない。
「美しい国へ」が「美しく老いる国へ」と方向転換できれば、
「もう楽しいことはないから希望もない」という若者の虚無感もむしろ軽くなるのではないだろうか。
(香山リカ『「悩み」の正体』岩波書店による)

248. 若い人たちが「終わった」という感覚を持つ個人的要因として、本文の内容と合うのどれか。

1. 10代を過ぎればもう大人で、そうなれば、あとはつらいことしかないということ

2. 自分がやりたいと思ったΠ標は、もうすべてかなえてしまったこと

3. 大人になればできる特別なことなど、ほとんどないと思っていること

4. 自分がやりたいと思ったことは、もうすでに誰かがやってしまったということ

249. 若い人たちが「終わった」という感覚を持つ社会的要因として、本文の内容と合うのはどれか。

1. 経済成長のピークを過ぎ、日本には先、楽しいことはないという雰囲気があること

2. 若い人から高齢者まで誰もが無気力で、国全体に活気がないこと

3. 日頃から大人たちが若い人に対して「楽しい時期は過ぎた」と言っていること

4. 他国との経済の競争に疲れ、国全体が意欲や目標を失っていること

250. 社会自体が年をとったとあるが、それはどのような状態か。

1. 少子高齢化が進み、高齢者の割合が大きくなっている状態

2. バブル経済が終わり、社会全体が衰退の時期にある状態

3. 長い不況の中、若者の安定志向が強まり、若者らしさが失われていく状態

4. すでに前に成長期を終え、社会全体にかつてのような活力がない状態

251. 筆者は、日本がこれからどうあるべきだと述べているか。

1. 「安定」から再び「成長」へと転じられるよう、若い人ががんばる日本社会にするべき

2. 「美しい国」を目指して、街をきれいに保ち、マナーを守るよう努力するべき

3. 若い頃の日本に戻り、他国に負けない経済発展と豊かさを追求していくべき

4. 国や社会の成熟を目指しなが、後に続く国に日本が手本になるよう模索すべき

議論は漫画やテレビと違い、接してさえいれば自然にその面白さに浸れるというモノではない。読むほう、聞くほうも積極的に関わらなければ面白くない。

逆に言うと、一定のテクニックを持つ者しかアクセスできないが、それがわかれば一挙に広大な世界が開ける。

この入り口に立てない人はこの豊穣な土地から閉め出されているに等しい。

252. この文章で筆者の言いたいことは何か。

1. 面白い話をする方法を学べば、議論は豊かな生活を築く基礎になる。

2. 積極的に勉強する方法がわかれば、議論にアクセスすることができる。

3. 必要な技術を身につけていれば、議論は大変面白く有益なものである。

4. テクニックだけを知っていれば、議論を豊かにすることができる。

貴重な生物が多い地域には、貴重な言語も多い。そんな調査結果を、米英の研究チームが米学アカデミー紀要に発表した。

しかし、その多くの言語は話し手が少なく、英語など一部の言語が国際的に広がることで ① 「絶滅」の危険性があるという。

チームは約6900の言語について地域的な特徴を分析。半分近い約3200の言語は、固有の生物が多いが、急速に生息地が失われている ② 「ホットスポット」と呼ばれる35の地域で使われていた。

ホットスポットは地上の約2.3%を占めるに過ぎないが、木や草、シダなどの約50%と、陸上に住む(注)脊椎動物の約40%がその地域だけに住む固有種だという。

約2200の言語はその地域に固有の言葉で、約1500の言語は1万人以下、約500の言語は1千人以下の人しか話していなかった。

言語と生物の多様性が同じ地域で見られる理由について、チームは「複雑で、地域ごとに異なるだろう」として詳しくは言及していないが、「人間の国際的な経済活動は、貴重な言語にとっても潜在的な脅威になっている」と指摘している。

(朝日新聞2012年6月13日付夕刊による)

(注)脊椎動物:背骨を持つ動物

253. 「絶滅」の危険性があることがわかったものは何か。

1. 貴重な生物が住む地域

2. 貴重な生物が住む地域での英語の話し手

3. 固有の種が多い地域で話されている言語

4. 地球上のある地域に固有の生物

254. ②「ホットスポット」の特徴として正しいものはどれか。

1. その地域は近年急速に減少し、35地域になった。

2. その地域の言語は、欞類は多いがそれぞれの話者は少ない。

3. そこで観察される言語の数が年々減り続けている。

4. 動植物が観察されるのは、その地表面の約2.3%に限られる。

255. 今回の米英チームによる調査を通じて、どのようなことが明らかになったか。

1. 英語快用の拡大と貴重な言語の話者の減少とは無関係である。

2. 調査対象とした言語のうち約3分の1は、その話者が1万人以下である。

3. 語の多様性と生物の多様性との類似について、因果関係が認められた。

4. 生物の生息地が急速に減る地域と言語が危機に瀕する地域には一致が見られる。

近代化された西洋風のマンションの中に一室だけ残された畳の間。ふつうその畳の間だけを和の空間と呼ぶのだが、本来の和は別のものである。

むしろ西洋化された住宅の中に畳の間が何の違和感もなく存在していること、これこそ本来の和の姿である。 (中略)

畳の間や和服そのものが和なのではなく、こうした異質のもののなごやかな共存ことが、この国で古くから和と呼ばれてきたものなのである。

少し見方を変えるだけで、この国の生活や文化の中で今も活発に働く本来の和が次々にみえてくる。

256. 筆者の言う本来の和と合っていないものはどれか。

1. 西洋風の料理の中に、日本料理が一皿加えられている。

2. 日本庭園の一角に西洋風のベンチが置かれている。

3. パーティーで、洋服の中に和服の人が交っている。

4. ファッションの趣味が同じ人だけが集まっている。

近代日本の教育にかんして、その内容がいかに問題にされても、すこしも疑われていないのは、義務教育制度そのものである。

何がそこでどのように教えられるかではなく、この学制それ自体が問題なのだが、教育論はすべてこのことの自明性の上に立つている。

かりにそれ以前の教育が歴史的に考察されるとしても、寺子屋(注1)や私塾のようなものを恣意的(注2)にとり出すだけである。あたかもそれらが拡大し一般化したのが「学制」であるかのように。

(注1)寺子屋:昔の学校

(注2)恣意的:自分勝手に

257. 筆者の言いたいことは何か。

1. 近代日本の教育においては、教育の内容が問題とされている。

2. 近代日本の教育では、どのように教えられるかが問題である。

3. 日本の教育で問題とされるべきことは、義務教育制度そのものである。

4. 日本の教育には、寺子屋や私塾のようなもの以外の教育制度もある。

集団にも個人とおなじように、それぞれ性格があるのはたしかだ。しかし、例外というものがある。それが千に一つの例外であるとか、百に一つ、十に一つといったふうに、程度に差があって、取り扱いもウエイト(注)をかえねばならない。いずれにしても、一つの例外を拡大して、それを集団の性格であると規定すれば、おとし穴に落ちたことになる。

(注)ウエイト:比重

258. 筆者が最も言いたいことは何か。

1. 集団にも個人と同じように性格があるので、集団の比較はやりやすい。

2. 集団の比較をするときは、例外の扱いに注意しなかればならない。

3. 集団の比較をするときは、性格を規定しなければならない。

4. 比較というのは、例外を考えるための一つの方法である。

非の打ちどころのない人間は、いません。誰でも、どこか欠けています。欠けているところだけみつめると、自分はダメ人間だと思えてきます。劣等感とも言います。

劣等感を忘れるときがあります。それは強いものの仲間に入って、「劣った人間」をばかにするときです。ほんとうは強くないのに、生まれつき強いものの仲間であるような気になって、劣等感から解放されます。

差別されるものに、劣ったところがあるのでなく、差別するほうに、どこか劣ったところがあるのです。劣ったところを忘れるために、自分たちは強い仲間だという、つくり話をかんがえだします。自分たちは正常の人間だが、相手はきずものだときめつけることもあります。

(松田道雄『私は女性にしか期待しない』可岩波書店)

259. 文章の内容と最も合っているものはどれか。

1. 劣等感を忘れれば、非の打ちどころのない人間になれる。

2. 強いものの仲間に入れは、劣等感を忘れることかできる。

3. 差別する側ではなく、差別される側に劣ったところがある。

4. 差別される側は、常に自分たちが正常の人間だと考えている。

非常ベルのたぐいで、一番心に残っているのは、ケニヤで見たものである。あれは何という動物保護区だったか、名前は忘れてしまったが、湿地帯のまん中に、高床式(注1)で建っていたホテルである。

(仲略)

食堂の脇に、ガラス張りの大きなベランダがあり、そこから、目の前の沼沢地(注2)に水を飲みにくる動物を見物出来るようになっていた。そのホテルの部屋の、ベッドサイドにベルがついていて、「アニマル・コール」という札がついていた。

絶対に大丈夫だといっているが、象もいればヒョウもいる。 ① 連中(注3)がその気になったら、体当たりだって出来るし、窓から忍び込むことも出来る。 ② 万一のときには、これを押せばいいんだなと、感心をしたのだが、これは私の早とちりであった。

夜中に水を飲みにくる動物を、徹夜で見張るわけにはいかない。何時に出てくるか判らないし、一晩中にらんでいても出てこないこともある。そこで、自分の見たい動物を書いて、頼んでおくと、見張り(注4)がいて、ヒョウが出たら、ヒョウを見たいと書いた人の部屋のベルが鳴るという仕掛けなのだ。

「アニマル・コール」は、野獣襲撃を知らせるのではなく、出ましたよ、見にいらっしゃいというサインなのである。私はヒョウとサイを頼んだ。鳴ることを祈りながら、いつ飛び起きてもいいよう、パジャマも着ず、着のみ着のまま、カメラと双眼鏡を枕もとに置いて横になったのだが、その夜、アニマル・コールは、沈黙したままであった。

(向田邦子『女の人差し指』文春文庫による)

(注1)高床式:床が地面から高いところにあるつくり方

(注2)沼沢地:沼や浅い川になっているところ

(注3)連中:彼ら

(注4)見張り:何かが起こるのをじっと監視している人

260. ①「連中」とはだれのことか。

1. 勳物

2. ホテルの人

3. 泥棒

4. ホテルに泊まっている人

261. ②「万一のとき」というのはどんなときか。

1. 泥棒が忍び込んだとき

2. 川の水があふれたとき

3. 動物に襲われたとき

4. 気分が悪くなったとき

262. 「アニマル・コール」の説明として、最も適当なものはどれか。

1. 動物が出たら、見張りはアニマル・コールを鳴らし、それを聞いたホテルの宿泊客はすぐに逃げる。

2. 動物が出たら、見張りはアニマル・コールを鳴らし、それを聞いた宿泊客は注文しておいた動物を見るために食堂へ行く。

3. 動物が出たら、宿泊客はアニマル・コールを鳴らし、ホテルの人に助けに来てもらう。

4. 動物が出たら、宿泊客はアニマル・コールを鳴らし、見張りの人に知らせる。

高山病に苦しむ男を、TV 劇のなかで、俳優が演じれば、「やらせ」にならない。はじめからつくり事(注)が約束だからである。

同じ場面を、ネパール高原の NHK 特別番組のなかで、撮影隊の一人が演じれば、「やらせ」になる。...「やらせ」であるかないかを区別するのは、場面についての約束であって、場面のつくり方、でき上がった場面そのもの、その場面を見る人の反応ではない。

TV 劇でも、特別番組「ドキュメンタリー」でも、撮影の現場では、誰もほんとうに高山病ではない。場面はみせかけである。見る人は、一人の男がほんとうに高山病に苦しんでいるかのように信じて、みせかけの画面を眺め、主人公に同情したり、なるほどネパールの自然はきびしいと思ったりする。いずれにしても見る人はだまされるのであり、...一方がだまされたくてだまされるのに対して、他方がだまされたくないのにだまされるというちがいがあるにすぎない。

しかしネパール高原の「ドキュメンタリー」について、視聴者は、一体何にだまされたくないのか。撮影隊の一人が高山病にかかったかどうかは、個別的な事実の問題である。その事実を通して番組のいいたかったのは、おそらくネパールの自然のきびしさだろうが、ネパールの自然がほんとうにきびしいかどうかは、また別の問題である。だまされたくないのは、個別的な事実についてか、その事実の意味、さらには番組全体のいおうとした事についてか。そもそも「ドキュメンタリー」というもののあらかじめの約束は、そのどちらに係るのか。もし後者に係るとすれば、NHK のネパール高原番組は、必ずしも視聴者をだましたとはいえない。もし前者に係るとすれば、そもそも視聴者をだまさない「ドキュメンタリー」は、容易にあり得ないだろう。

(加藤周一「やらせ」について『夕陽妄語』朝日新聞社による)

(注)つくり事:作り話、うそ

263. TV 劇と特別番組の「やらせ」について、本文と合っているものはどれか。

1. 特別番組で高山病の様子が流されても、見る人は感情移入できない。

2. うその場面を使った特別番組は、ドキュメンタリーとは呼べない。

3. TV 劇はフィクションなので、高山病の場面は「やらせ」とはいえない。

4. どちらの場合も、視聴者は男性が高山病になったと信じてしまう。

264. 筆者によると、この特別番組が視聴者に伝えたかったのは何か。

1. 撮影隊の一人が高山病にかかったという真実

2. ネパールの自然は厳しいということ

3. 自然の厳しさが人体に与える影響

4. 視聴者をだますつもりはないということ

265. 必ずしも視聴者をだましたとはいえないとあるが、なぜか。

1. 制作者独自の主張に基づいて作られているから

2. 実際に現地に行って撮影した映像を使っているから

3. ドキュメンタリーは人によって見方や受け取り方が違うから

4. 番組の主張そのものはほぼ真実と思われるから

高速化した現在においては、様々な情報が入り、移動も高速化されたことにより、① 遭在的に宝現町能な事柄の数は増えたに違いない。やりたいことの中には、「どうしても実現したい」というものもあれば、「やらないよりはやったほうがまし」というレベルの事柄も多く含まれていることだろう。

しかし、人間が一つのことをやり遂げるにはどうしても一定の時間がかかる。その時間が技術革新や経験、学習によって、増えた欲望を満たすのに必要な時間以上に短縮されないとしたらどうなるだろうか。当然、潜在的な可能性に基づいて肥大する欲望のうち、実際に満たされるものは一部のみということになる。この場合、やりたいこと、やれるはずのことは数多くあるのに、なかなかそれが実現できないジレンマが生じる。そうなると、むしろ、できる事柄が少なかったころよりも時間が足りず、忙しく、② やりたいことができないという感覚が強くなっているかもしれない。

同様の問題は、会社などにおける仕事についても指摘できる。「やらないよりはやったほうがよい」作業や会議などが増えたとしても、1日の長さが変わるわけではない。また、どんなに単純な作業であっても、その遂行にはある程度の時間が必要だ。やらないよりはやったほうがよい仕事の数が少ないうちは何とか対応できるだろうが、その数がどんどん増えていくと、本当になすべき仕事にかけたい時間も削られることになってしまう。 ③ 結果として、組織としての生産性は低下する

誰にとっても時間は有限であること、どんなに簡単な作業も一定の時間を必要とすることを考慮し、作業の優先順位に従って、効率的に時間という資源を使用することを心がけることが望ましい。

266. 潜在的に実現可能な事柄の数は増えたとはどのような意味か。

1. 移動が高速化したことで仕事の可能性が広がり、欲望だけが大きくなっている。

2. 情報が増え、手段が多様化したことでできればやりたいと感じることが増えている。

3. まだ実現できるとは限らないのに、情報が増えたことで欲望が刺激されている。

4. これからの技術革新でますます可能性が増し、やりたいことが増えていく。

267. やりたいことができないという感覚が強くなっているのはなぜか。

1. できる事柄が多くなったのに、ひとつひとつに時間をかけることを要求されるから。

2. 人間は一つのことをやり遂げるのに必要な時間を短縮することができないから。

3. 技術革新や学習によって時間を生み出すこつがうまく習得できないから。

4. やりたいという欲望が増えたのに、それに当てられる時間は増えないから。

268. 結果として、組織としての生産性は低下するとあるが、それはなぜか。

1. 「やったほうがまし」な仕事のほうが簡単で、皆がそういう仕事を優先させるから。

2. 「やったほうがまし」な仕事が増えた結果、本当に必要な仕事ができなくなるから。

3. 「やらなければならないこと」の重要性がそのほかの仕事のせいで見えなくなるから。

4. 「やらなければならないこと」ばかりが増えて、どれも完成させることができなくなるから。

269. この文章で筆者が言いたいことは何か。

1. 現代人に大切なのは、与えられた時間の中でいかに効率よく優先順位の高い仕事を実現していくかを心がけることである。

2. 現代人に大切なのは、与えられたさまざまな手段と可能性を使って、できる限り多くのことを実現すべく努力し続けることである。

3. 現代人は、やりたいこととやるべきことを明確に区別し、限られた時間の中で生産性を上げる方法を常に探すべきである。

4. 現代人は、技術革新と経験を積み重ねることで無駄な単純作業をなくし、なすべきことの実現を目指すべきである。

(A)

LCCは今や航空業界を席巻する成長ぶりである。先日も、LCCを利用し東南アジアへ旅をする機会があった。

今回は7時間というフライトで、食事や飲み物のサービスが一切ないため、サンドイッチを購入することにした。しかし、何にせよ、選択肢があることは良いことだ。

時間が来たら起こされ、食べたくもない食事を無理やりほおばる従来の機内サービスに比べたら、自分で選べることのほうがありがたいと言えばありがたい。

もちろん、安かろう、悪かろうという面も多々ある。予約の際、インターネットを利用するが、手続きが少々複雑な上、キャンセルや変更もきかないといった落とし穴もある。

また、便の遅延や欠航は日常茶飯事である。しかし、これらもすべて、料金を抑えるための方策によるものである。費用が安くなる分、気軽に旅を楽しめるようになったのは歓迎すべきことであろう。




(B)

近年、日本市場に本格参入したLCCにみられるあの手この手のコスト削減の方法には、新鮮な驚きを覚えた。LCCでは、食事や飲み物をはじめ、映画の視聴や毛布などのアメニティーといった、これまで機内サービスの標準だったものが、基本的になくなったのだ。

もちろん、必要ならばどれも有料でサービスを受けられる。この点が何とも合理的で好ましい。今後ますます浸透していってくれることを期待している。

一方で、チケットの販売方法には課題を感じる。現在、インターネットでの購入が中心となっているが、利用方法が非常に複雑で、このままでは決まった層だけが利用できるサービスになりかねない。

また、旅行代理店を通さない方法は、旅行業界にとってプラスにならないのではないかという懸念を抱く。いずれにせよ、業界全体の利益と発展に十分配慮がされることが望まれる。

270. AとBのいずれか一方のみで書かれていることはどれか。

1. LCCのコスト削減方法

2. LCCの機内サービスへの意見

3. 実際にLCCを利用した感想

4. LCCの今後の展開予測

271. LCCの予約方法についてAとBはどのように考えているか。

1. Aはインターネットによる予約方法での不便は料金が安いので仕方がないと考え、Bは旅行会社を通さないことは、業界にとってはあまり好ましくないのではないかと考えている。

2. Aはインターネットによる予約方法は誰もが気軽に利用できるので歓迎すべきだと考え、Bは若者など決まった層だけが利用することになると指摘している。

3. Aはインターネットによる予約方法でキャンセルや変更ができないことを問題視し、Bは料金が安いので当然だと考えている。

4. Aはインターネットによる予約方法は多少不便だが料金が安いので当然だと考え、Bは旅行代理店を通さないことが合理的だと考えている。

272. LCCに対するAとBの考えはどのようなものか。

1. Aは何のサービスも受けられないことに不満を感じており、Bはお金さえ払えばサービスが受けられるシステムを合理的だと考えている。

2. Aは多少の不便は感じるものの、すべて低コストのためだと納得しており、Bは便の遅延や欠航を減らすことを最も改善すべき点だと考えている。

3. Aは便の遅延や欠航が生じやすいのは料金が安いのである程度しかたがないと考え、Bはチケット販売の方法は合理的で良いと考えている。

4. Aは利用者にとって旅費の負担が軽くなったことが何より朗報だと捉え、Bは全体的に好意的である反面、チケットの販売方法については改善の余地があると考えている。

(A)

テレビや新聞などで年々深刻化するゴミ問題が取上げられている。例えば一般的な家庭ごみとして、生ゴミのほかにも食品容器などの過剰包装による廃棄物が多く見られるという報告がある。最近では指定されたゴミ袋を買ってゴミを捨てたり、客に買い物袋の持参を促したりする動きがあるが、ゴミの量に変化は見られない。

もし、自治体が家庭ごみ一個の収集につきoo円と有料化すればゴミは減るかもしれない。ゴミ自体の廃棄にもお金がかかるようになれば、誰もがゴミを出す前に考えるようになるだろう。そうなれば消費者は不必要な包装を断り、使用可能な物まで捨ててしまうことも減少するのではないだろうか。




(B)

現代社会は数十年前と比較にならないほど便利な生活が可能になった。しかし、不要になった物を再利用することよりも便利さを優先してきた結果、家庭ごみは増え続ける一方だ。

家庭ごみを減量するため、現在、ゴミ袋を有料化し消費者が処理費用の一部を負担することになっている。しかし、それだけでは不十分であり、所定の場所でのごみの収集にかかる費用を消費者に負担させようという意見も出ているが、そうなればごみを所定以外の所に隠れて捨てるおそれも出てくる。このような問題を解決せずに安易にこれを実行に移すのには賛成しかねる。

物が生産され、消費者が購入し、不要なものは廃棄されゴミになるという循環を考えると、新しい製品を次々と作りだす生産者も、それに慣れ切ってしまった消費者も便利さに対する意識を変える必要があるのではないか。

273. AとBが共通して問題だと指摘していることは何か。

1. 家庭ごみが所定の場所以外に捨てられること

2. ゴミ処理の費用を消費者が負担すること

3. ゴミ問題への生産者側の意識が薄いこと

4. 家庭で出されるゴミが減らないこと

274. 家庭ごみ収集の有料化についてAとBはどのように述べているか。

1. AとBも、ゴミ処理費用を消費者が負担することになるので、ゴミ減少に貢献するだろうと述べている。

2. AもBも、有料化しても家庭ごみは減らないばかりか、ゴミ捨ての規則を守らない人が出てくるだろうと述ている。

3. Aでは有料化すればゴミに対する考え方が変わるだろうと述べ、Bでは有料化する前に意識改革が必要だと述べている。

4. Aでは有料化すれば資源の無駄遣いが少なくなるだろうと述べ、Bでは有料化すれば便利さに対する意識が変わると述べている。

275. ゴミ問題についてAとBはどのように考えているか。

1. AもBも生産者と消費者の双方が協力すれば改善できると考えている。

2. AもBも、自治体の協力を得て消費者地震が対応すべき問題だと考えている。

3. Aでは消費者が対応すべきだと考えているのに対し、Bでは主に生産者が取り組むべきだと考えている。

4. Aは自治体が対応すればいいと考えているのに対し、Bは生産者や消費者の意識も大切だと考えている。

(A)

難しい漢字を多く含む196字が追加された改定常用漢字表。学校現場でいつからどう教えるかという大きな課題に対し、文部科学省は、中学から読みを、高校で書くことを中心に指導する方針を打ち出した。
(中略)

「高校で主なものが書ける」というこれまで目標は踏襲し、「主な」漢字が何かは、各校の判断に任せるとした。

入試では、書かせる問題に偏らないよう求めたものの、明確な歯止めは示していない。もし、入試でことさら難しい漢字を取り上げる傾向になれば、学校でも、必要以上に書くことの指導に力を割くことになりかねない。

現場の教員からは「授業時数が限られる中、20字近い漢字の増加自体、生徒にも教師にも大きな負担だ」との声も上がっている。学習を助ける教材などの開発が急がれる一方、入試については何らかの歯止めを示すことも検討課題だろう。




(B)

常用漢字表が改定され、これまでの千九百四十五字から二千三百三十六字になった。パソコンの普及で自分では書けないような漢字に触れる機会が増えたためで、その分、難しい漢字も多く盛りこまれた。

ゆとり教育を見直し、学習すべき内容が全体的に増えている中、漢字が二割も増えたら、教師や生徒は戸惑うだろう。

とはいえ、都道府県名など今まで使えなかった漢字が便利になり、書く側には難しい字でも読む側には一目で意味が分かり、負担ばかりだとは言い切れない。

常用漢字は言語生活に欠かせない重要なものである。その時代に合わせた漢字が必要になる。この常用漢字表改定を機に、生活に必要な漢字について改めて考えてみたらどうだろうか。

276. A と B のどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

1. 漢字教育に対する筆者の考え

2. 改定常用漢字表と学校教育への影響

3. 改定常用漢字表と入学試験との関係

4. 改定常用漢字表に対する期待と効果

277. 「新常用漢字表」について心配されていることは何か。

1. 漢字が増えることによって、教師や生徒の重荷になること

2. パソコンの普及によって、ますます漢字が書けなくなること

3. 大学の入試問題で難しい漢字を書かせる問題が多くなること

4. 時代に合わせた漢字がどんどん増え、覚えきれないこと

278. A と B は「新常用漢字表」についてどのような立場をとっているか。

1. A も B も批判的な立場である

2. A も B も好意的な立場である。

3. A は批判的な立場だが、B は好意的な立場である。

4. A は好意的な立場だが、B は明確にしていない。

(A)
昼間の明るい時間を有効利用するための「サマ-タイム(夏時間制度)」の導入に向けた関連法案の次期国会提出が確実視されている。

サマータイムは日照時間が長い期間、時計の針を一時間進める仕組みだ。戦後導入された時期もあたが、労働時間が増加するなどの理由で廃止れた。今般、照明や冷房などの電力節約、つまり温暖化対策として再度提言された。

さらに夕方の明るい時間帯のレジャー活動活性化によって約九千七百億円の経済効果、十万人の雇用創出につながるという。経済波及効果もさることながら、サマータイムは自然のサイクルに合った生活スタイルを考える契機ともなり、「アフタ一五」に家族や友人との付き合い、余暇活動など「潤いのある生活」を取り戻すこともできると期待されている。




(B)
温暖化対策の一環としてサマータイム制度の導入が提言されている。豊かなライフスタイル、省エネ、経済波及効果など、その効果に期待が高まっている。

しかし、サマータイムが身体のリズムや睡眠に悪影響を及ぼすことは、多くが指摘するところだ。ヨーロッパでは、時計の針を一時間進めたことで、睡眠時間が短くなり睡眠効率も低下するという調査報告がある。

日本人の睡眠時間は年々減っており、欧米諸国の平均より一時間短い。しかも八0%の人が夜十時過ぎても起きている夜型社会だ。中高生では夏休みに就寝時間が遅くなり、新学期に起きられず不登校になるケースもある。不眠症に悩む高齢者も多い。

夏冬の日照時間の差が大きい北半球の高緯度地域では効果もあるだろう。それをそのまま日本に当てはめることはできない。日本では現在四五人に一人が不眠などの問題を抱えており、うつ病に伴う不眠も多い。温暖化対策の視点も重要だが、健康への影響を考慮するべきだろう。

279. サマータイムを導入することに関して、AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

1. サマータイムは地球温暖化対策として有効である。

2. サマータイムは健康に悪影響がある。

3. サマータイムは余暇活動を活発にする。

4. サマータイムは労働時間を増加させる。

280.  サマータイム制度の導入について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

1. Aは賛成だが、Bは批判的である。

2. Aは賛成だが、Bは態度を明確にしていない。

3. Aは態度を明確にしていないが、Bは批判的である。

4. AもBも態度を明確にしていない。

281. サマータイム導入検討に当たって、AとBの筆者がそれぞれ重視しているものは何か。

1. Aは経済的波及効果を重視し、Bは夜型の生活を助長することを重視している。

2. Aは労働時間の長時間化を重視し、Bは高齢化社会への影響を重視している。

3. Aは余暇時間の創出を重視し、Bは健康面での損失を重視している。

4. Aは省エネ効果を重視しBは睡眠への影響を重視している。

(A)
ひとりの時間は、リラックスするときでもある。ストレスの溜まった心を、ひとりでいる、ゆったりとした時間の中で癒すのだ。ストレスほど、私たちの心をかき乱すものはない。

ひとりの時間は、好きなことに熱中できるときでもある。落語のCDを聞いたり、鉄道模型で遊んだり、本を読んだり、ウォーキングで軽く汗を流したりして、心に楽しみを与える。それが、あしたへの活力源となる。

上手にひとりの時間を使って、整理し、休み、楽しむ。こういう生活習慣を持つ人は、いつも平常心でいられるのである。

ある人は「なかなかひとりになれない」とこぼした。ケータイ電話が、すぐ鳴るからである。そのたびに、あーでもない、こーでもないと、相手と話しあうことになる。こういう日常が、いつか感情のコントロールを不能にするのだ。要注意。
(斎藤茂太『感情コントロール』「気持ちの整理」私の方法』新講社による)




(B)
ひとりの時間を楽しめるかどうかは、その人の成熟度を知るバロメーターになります。ひとりでじっとしていられない人、何かせずにいられない人、家でゆっくりできない人、スケジュールがうまっていないと不安になる人は要注意。

あなたがゆったりできない理由は何でしょうか。ゆったりすると、どうなってしまうような気がしますか。もしかしたら、何かを恐れているのでしょうか。その恐れから逃れるために、予定を詰めこんでいるということはありませんか。

ひとりの時間を楽しむととは、リラックスして自分に向き合うこと。つまり、ひとりになれないというこことは、自覚のあるなしにかかわらず、自分に向き合うことを避けているということ。
(齋藤孝子『人はなぜ怒るのか』幻冬舎新書による)

282. A と B のどちらの文章にも触れられている内容はどれか。

1. 感情のコントロールの仕方

2. ストレスの解消法

3. ひとりになることの怖さ

4. ひとりの時間の必要性

283. A の筆者と B の筆者は、どんな人は「要注意」だと言っているか。

1. A は「ひとりになれない人」、B は「自分に向き合う人」

2. A も B も、ともに「ひとりになれない人」

3. A も B も、ともに「ひとりでいるのが好きな人」

4. A は「熱中する人」、B は「ひとりになれない人」

284. A と B の二つの文章を以下のようにまとめる場合、① と ② に入るものの組み合わせとして適切なのはどれか。「A の筆者は、ひとりになることは ① に必要だと考え、B の筆者は、ひとりになることは ② に必要だと考えている。」

1. ① ケータイ電話から逃れるため ② 自分に向き合うため

2. ① ケータイ電話から逃れるため ② ストレスをなくすため

3. ① 心に楽しみを与えるため ② 自分に向き合うため

4. ① 心に楽しみを与えるため ② ストレスをなくすため

(A)
マンガやアニメ、ゲームは今や日本の代表的文化であり、その資料は歴史的に貴重な文化財であるにもかかわらず、きちんと保存されてこなかった。

ごく最近まで、アニメのセル画やマンガの原画はゴミ同様に廃棄されていた。保存すべきだという意識が制作者にも周囲にもなかった。

一方、海外では、このような日本のアニメのセル画を収集し、大切に保存しているコレクターがいる。その展覧会も開かれたほどだ。

このままでは日本で生まれ、発展した文化が海外に流出し、日本で研究できなくなるおそれがある。したがってこれらの資料を保存し、今後、アニメやマンガに関する幅広い研究や分析を可能にする施設を建設することが求められる。

このような施設は、収集・保存や研究活動を安定して行うためにも、経済状況に左右される民間より、国による設置が望ましいと考える。




(B)
マンガやアニメはもともと一般の人々の中から生まれ育ってきたものである。

その陰にはマンガ界をリードしてきた先人が、若い才能に目をかけて育ててきた歴史がある。

こうした民間の中で発展した文化を尊重する気持ちを忘れてはいけない。

国がマンガやアニメのためにお金を出すことには大いに賛成だが、それなら例えば、アニメーターやマンガ家志望の若者を格安で住まわせるアトリエのような住居を提供し、次代を担う才能を育てるというのはどうか。→新しい施設を建設するよりずっと安くできる。

その他にも、メディア芸術祭の賞金を増やす、受賞者に生活費の心配をせず一年間思い切り作品作りに打ちこんでもらう、若い芸術家を海外に派遣する制度を拡充するなど、やるべきことはたくさんある。

285. AとBのどちらにも触れられている内容はどれか。

1. マンガやアニメ文化は日本独自の文化である。

2. マンガやアニメ文化は尊重するべきだ。

3. マンガやアニメの資料研究は重要だ。

4. 日本のマンガやアニメが海外に流出するのを防ぐ必要がある。

286. Aの意見とBの意見で、一番違っている点はなにか。

1. Aは、美術館は国による設置が望ましいとしているのに対し、Bは民間による運営が望ましいとしている点

2. Aは、マンガやアニメに関する資料の保存を重要視しているのに対し、Bは日本の伝統的な民家保存を重要視している点

3. Aはマンガやアニメ文化を日本の中だけで育てるべきだと言っているのに対し、Bは海外に積極的に進出するべきだと言っている点

4. Aは資料を保存する施設の建設を支持しているのに対し、Bはマンガ家やアニメーターの育成にお金をかけるべきだと言っている点

287. アニメのセル画やマンガの原画が保存されてこなかった理由は何か。

1. アニメのセル画やマンガの原画は産業廃棄物の一種だから

2. 保存すべきだという意識が制作者にも周囲にもなかったから。

3. 外国のコレクターによって収集されてしまったから。

4. 民間の運営によって、経済状況に左右されてきたから。

(A)
乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びなどの実体験を重ねることによって、人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳児期からのメディア(注1)漬けの生活では、外遊びの機会を奪い、人とのかかわり体験の不足を招きます。実運、運動不足、睡眠不足そしてコミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発達の遅れや歪みが生じた事例が臨床の場(注2)から報告されています。

このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けやすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の甚大さの警鐘と私たちはとらえています。

牸に象徴(注3)機能が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問俎のある子どものテレビ画面への早期世接触や長時間化は、親子が顔をあわせ一緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。




(B)
専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」「自然の中で遊びましょう」という意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題もあるのだと思います。(中略)

多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にもを遣っています。生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に六時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背景に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。

したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。

(注1)メディア:ここでは、テレビやビデオ

(注2)臨床の場:実際の診察、治療の現場

(注3)象徴機能:ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き

288. 子どもにテレビを長時間見せることについて、AとBの観点はどのようなものか。

1. Aは問題解決を意識した今後の課題を述べ、Bは批判的に現状を報告している。

2. Aは解決を意識した問題提起をし、Bは問題の原因は社会的背景にあると指摘している。

3. Aは影響の大きさを示して注意を喚起し、Bは問題解決を意識した今後の問題を述べている。

4. Aは問題の原因は社会的背景にあると指摘し、Bは影響の大きさを示して注意を喚起している。

289. 子どもとテレビの関係について、AとBはどのように述べているか。

1. Aはメディアとの接触より親子のかかわりが大切だと述べ、Bはテレビを見せるよりも外での遊びを重視したほうがいいと述べている。

2. Aはメディアとの接触が子どもの発育を妨げる要因だと述べ、Bは子育てを取り巻く状況がテレビの見せ過ぎを引き起こす場合があると述べている。

3. Aはメディアとの接触が長いことよりも実体験の不足のほうが問題だと述べ、Bは生活の中からテレビを排除しただけでは問題は解決しないと述べている。

4. Aはメディアに長時間接することが子どもの成長に影評を与える場合が多いと述べ、Bは親が子どもに適切にテレビを見せることが大切だと述べている。

(A)
女性の育児休業取得率が90.6%とこれまでの最高を記録したことが、厚生労働省の調査でわかった。育児休業後の支援でも、約1年間の短時間勤務制度を導入している事業所の割合や、小学校就学時までの短時間勤務を続けることができる事業所の割合は、いずれも増加しており、育児休業に対する世の中の理解が広まってきたことがわかる。一方、男性の取得率は1.23%である。男女で育児休業取得率に大きな差が見られることについて専門家は、「女性はこれまで出産退職が多かったが、厳しい経済状況下、家計のために仕事を辞められない人が増えており、男性では育児休業取得によるリストラを不安に感じる人が増えているのだろう」と分析している。




(B)
厚生労働省の雇用均等基本調査によると、男性の育児休業取得率は1.23%にとどまり、女性の取得率90.6%との差が広がっていることがわかった。また、取得期間についても、女性では「10〜12カ月未満」が最も多かったが、男性では「1カ月未満」が過半数であった。男性が育児休業を取得しないのは、制度の利用によって受ける不利益を心配してのことだといわれる。実際、制度取得後の労働条件は「明示しない」など、過半数の事業所で規定が不明瞭であった。厚生労働省は8年後までに男性の育児休業取得率を10%にするという目標を掲げてる。しかし、調査結果を見ると、制度取得後の労働条件についての法整備なくして、この達成はかなり難しいと言わざるを得ない。

290. AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

1. 復職した後の短時間勤務制度

2. 男性が育児休業を取得する期間

3. 育児休業制度に対する世の中の理解

4. 男性の育児休業制度が低迷している理由

291. 男性の育児休業取得率の目標値の達成について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

1. AもBも、ともに明確にしていない。

2. AもBも、ともに悲観的である。

3. Aは悲観的であるが、Bは明確にしていない。

4. Aは明確にしていないが、Bは悲観的である。

292. 男女の育児休業取得率に差が広がった理由は何か。

1. 長期化する不況下での就業事情が異なるから。

2. 育児休業取得によって男女差別を受けるから。

3. 育児休業後に男性は労働条件が悪くなるから。

4. 育児休業に対する意識の広がりが異なるから。

(A)
婚姻届を出すには、姓を夫婦どちらかのものにそろえなければならない。いまの民法はそう定めている。

姓を変える妻か夫は、もとの姓で積み重ねてきた仕事の実績や人間関係のリセット(注2)を迫られる。特に働く女性には抵抗感を抱く人が少なくあるまい。

(中略)
そこで希望する夫婦に限って結婚前の姓を選べるようにする。それが ① 選択的夫婦別姓だ。

選択的夫婦別姓への改正を法制審議会が答申したのは13年前。以来、導入を阻んできた反対論は次のようなものだ。

・夫婦が同じ姓を名乗るのは日本の伝統であり文化だ。

・夫婦別姓では家庭のきずな(注3)が崩壊する。

・子どもが混乱し、教育上よくない。

だが、家族のきずなは同じ姓だからといって保たれるわけではない。
(中略)
政府は法案の提出をためらうことなく、国会は議論を先送りしないで決着をつけるべきときである。

(「朝日新聞」2009年10月16日)

(注1)婚姻:結婚すること

(注2)リセット:再び初めの状態に戻すこと

(注3)きずな:家族・友人などの結びつきを離れないようにつなぎとめているもの




(B)
婚姻時に夫婦が同姓・別姓を選択できる ① 選択的夫婦別姓制度の導入が現実味を増してきた。

しかし、自民党などの保守系議員からは以下のような反対論が強く出され、法改正が見送られてきた経緯がある:

・「家族の一体感を損なう」

・「親子が違う姓になるのは子の福祉に反する」
(中略)

毎日新聞が1996年に16〜49歳の女性約3,500人を対象に実施した世論調査では、56%の女性が制度に賛成したが、5人に4人は自らは別姓にしたくないと回答した。

あくまで「選択的」であり、少数派の意思を尊重しようとの民意が調査結果からは読み取れる。その観点から考えても、制度導入には前向きの姿勢で臨むべきだ。

(「毎日新聞」2009年10月6日)

293. AとBの下線部 ① 選択的夫婦別姓とは何か。

1. 夫も妻も自分が好きな姓をどれでも選ぶことができること

2. 夫も妻も結婚する人は全員、結婚しても姓が変わらないこと

3. 夫も妻も結婚前の姓を使いたい人は使うことができること

4. 夫が妻の姓を使うことができること

294. 選択的夫婦別姓について本文中に出てきた反対論と違うものを選べ。

1. 日本の伝統であり文化でもある。

2. 家庭のきずなが弱まり、一体感がなくなる。

3. 子どもが混乱するので教育上の問題がある。

4. 女性の社会進出が進んだため、特に働く女性には抵抗感がある。

295. 選択的夫婦別姓制度についてAの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

1. AもBもともに賛成、もしくは早期に法案を提出すべきであると考えている。

2. AもBもともに反対、もしくは議論は先送りすべきであると考えている。

3. Aは賛成であるが、Bは反対である。

4. Aは反対であるが、Bは賛成である。

(A)
生態系(注1)保全では、そこに(注2)生息する生物のことを考慮するが、生態系を構成するすべての生物を等しく扱うことはできない。

なぜなら、一部の生物を守ろうとすると、必ず不利益を被る生物が生じるからである。

すなわち、われわれ人間が何をしても、それによって利益を得る生物と不利益を受けるものが生じることになる。

そうなると、生態系を保全する目的で、何らかの活動をするということは、一部の生物種に利益を与えるということになる。
(中略)

唯一われわれが言えることは、われわれが人類であるから、「地球生態系は人類が健全に生きていくためにある」ということである。

すなわち、「生態系は人類のため」なのである。

言い換えれば、人類に利益を与えてくれる生態系を保全すべきなのである。

(花里孝幸『自然はそんなにヤワじやない―誤解だらけの生態系』による)




(B)
(注3)保全生物学の核となる概念である生物多様性は種の存続によって維持される。

したがって、保全生物学では、希少種や減少過程にある個体群の保全に関する知識と方法が一つの重要な課題である。
(中略)

しかし、個別の種をそれぞれ保護することは非常に困難である。

一つの生態系をとっても、微生物から植物、昆虫、哺乳動物など多くの種が生存しているが、それらの全すべての生態を把握して保護することは不可能に近い。

さらに、未分類の種や種レベル以下の遺伝的多様性は、個別の種を保護する方法では逆に保護されなくなってしまう恐れがある。

そこで、多様な生物の相互関係を含む自然をそのまま保全することが重要になってくる。

つまり、生態系を保全することで、そこに含まれる全すべての生物を保護するという考え方である。

(高柳敦『琵琶湖研究所所報』1996年第15号による)

(注1)保全:ここでは、守ること

(注2)生息する:生きる

(注3)保全生物学:生態学の研究分野のひとつ

296. 生態系を構成する生物の保護について、AとBの文章で共通して述べられていることは何か。

1. 多様な生物を含む自然全体を保護することが重要である。

2. 多様な生物種を一様に保護していくことは非常に難しい。

3. 生物種を分類して保護することは生物間の差別につながる。

4. 人類に利益を与える生物を保護するべきである。

297. 保護すべき対象についてAとBはどのように考えているか。

1. Aは地球生態系を、Bは遺伝的多様性のある種を保護すべきだと考えている。

2. Aは生態系の全生物を、Bは希少価値のある生物を保護すべきだと考えている。

3. Aは人類に利益を与える生物種を、Bは個別の種を保護すべきだと考えている。

4. Aは人類のためになる生態系を、Bは生態系全体を保護すべきだと考えている。

(A)
選挙権は一人一票。平等に与えられているはずだが、実際は人口の少ない地域の候補者が少ない票数で当選するのに対して、人口が多ければその倍以上取っても落選する。

2008年の選挙では人口の多い神奈川県と少ない鳥取県では4.868倍もの格差があった。私の票も衆議院で0.46票、参議院て0.23票の価値しかない。このままでは私の意見はこの比率しか反映されない。早く格差を無くしてほしい。

議員は地位が脅かされる選挙制度改革をしたくない。しかし最高裁判所で格差は憲法違反だという判決が出れば改革せざるを得ない。そこで、最高裁判所の裁判官の国民審査で格差を憲法違反ではないと考える裁判官を信任しない、つまりxをつけるという運動が生まれた。これを広めて世論を喚起し一票の格差を解消したいと思っている。




(B)
国民は法の下に平等だから一票の格差は解消すべきものだろう。

しかし、完全に平等になったら都会の人たちの意見を代表する議員ばかりになり、私たち人口が少ない地域に住んでいる者の意見は国政に反映されなくなってしまう。地方の疲弊が言われている。

私の住む地域は子どもの学力テストで日本一と言われ持て囃されているが、成長した優秀な子ども達のほとんどが都会に行って帰ってこなない。沢山の税金や家計費を使って都会の繁栄のために子育てしているようなものだ。あげくの果てに国政でも隅に追いやられては、地方は益々活カを失ってしまう。

選挙制度の改革は当然だが、格差解消だけでは真の平等は実現しない。地方の意見も吸い上げる新しい制度が必要だと思う。

298. どうして選挙制度が変わると地位が脅かされるのか。

1. 議員の数が減らされるから

2. 立候補できなくなるから

3. 地方の議員が要らなくなるから

4. 選挙で落ちる恐れがあるから

299. 両者の立場を表しているのはどれか。

1. AはBとも選挙制度改革のために積極的に運動している。

2. Aは選挙制度改革に賛成Bは改革に全面的に反対である。

3. Aは格差解消に積極的だが、Bは懐疑的である。

4. Aは都会の議員Bは地方の議員である。

300. 日本の現状を述べているのはどれか。

1. 一票の格差はかなり大きい。

2. 都会と地方の対立が生まれている。

3. 地方の議員は楽に当選している。

4. 現在は地方の意見のほうが反映されている。

(A)
高速道路というのは、何のためにあるのだろうか。全国どこへでもより早く、便利に行けるようになることで、都市にも地方にも豊かさをもたらす。そういう存在であるベきだ。

現在のように高額な通行料金が課されるのでは、便利さを求めて企業は都市に集中する。地方にいては条件のいい就職先が見つからないと、若者は都市に向かい、ますます都市に人口が集中する。

交通の便がよくなることで地方が活性化し、このアンバランスが解消されれば、都市に集中していた人口が地方に分散し、日本全体の発展が期待できる。もちろん高速道路の無料化だけでこれらすべてが実現するわけではない。しかし、地方の活性化のための第一歩になるものだと思う。




(B)
最近、高速道路を無料化しろという議論をよく目にするが、ここでちょっと考えてみたい。現在、高速道路は有料であることで交通量がある程度抑えられ、その結果、高速走行が可能になっている。

しかし、無料化によって交通量が増えれば、走行速度が落ちる恐れがある。現在、高速道路を使って5時間で行ける所が5時間半かかるようになったとしても、大した違いはないと思うかもしれない。ちょっと早く出ればいいのだと。

しかし、大量の輸送を必要とする企業にとっては、人件費、ガソリン代などの増大が、高速道路料金を上回るという試算もある。金を出さずに時間をかけるが、金を出しても速さを求めるか。選択肢を残してほしいものだ。

301. 高速道路の無料化によって起こると予想されることで、AとBの両方が触れている内容はどれか。

1. 交通量の変化

2. 輸送経費の変化

3. 経済への影響

4. 地方への影響

302. 高速道路の無料化について、Aの筆者とBの筆者はどのような立場をとっているか。

1. Aは賛成だが、Bは批判的である。

2. Aは賛成だが、Bは態度を明確にしていない。

3. AもBも態度を明確にしていない。

4. Aは態度を明確にしていないが、Bは批判的である。

303. Aの筆者とBの筆者は、それぞれ何を重視しているか。

1. Aは地方に住む人のことを、Bは都市に住む人のことを重視している。

2. Aは若者の利益を、Bは企業の利益を重視している。

3. Aは料金が一律になることを、Bは複数の選択肢があることを重視している。

4. Aは往来が容易になることを、Bは高速で移動できることを重視している。